東京都墨田区の横網町公園内にある東京都慰霊堂は、1923年(大正12)に発生した関東大震災の被害者の遺骨を納めるお堂として建立され、初めは『震災記念堂』と呼ばれていた。
凡そ20年後の太平洋戦争末期、東京はアメリカ空軍の激しい爆撃によって関東大震災の数倍もの災禍を被っている。
そこで、戦災遭難者の遺骨を併せてお堂に納め、1951年(昭和26)に現在の『東京都慰霊堂』と名を改めた。
以上が東京都慰霊堂の概要である。
東京都慰霊堂へのアクセス
都営大江戸線・両国駅A1番出口から2~3分歩いた先にある。
近くに小さな有料駐車場が点在しているようなので、自動車で行けないこともない。
関東大震災について
1923年(大正12)9月1日午前11時58分、快晴。
昼食準備で忙しなく働く最中、激しく大地が揺す振られた。
『ハッ?!』と驚きの瞬間、家屋は次々と倒壊し始め、各所からの失火が燃え広がり炎と黒煙が街を覆い尽くした。
迫る火の手に追われるように老若男女は右往左往し、やがて河岸や空地へ逃げ集った。
陸軍被服廠跡の悲劇
江東方面では『横綱町の陸軍被服廠跡へ逃げれば助かるかもしれない!』と誰かが大声を発し、多くの被災者が被服廠跡を目掛けて走ったと云う。
被服廠跡は直ぐにぎゅうぎゅう詰めとなり、身動きを取れぬまま、炎が落ち着くのを見守るほか無かった。
ところが炎は治まる気配無く、仕舞には火の渦となって人々を襲い始めた。
数時間後、被服廠跡の空き地には凡そ38000の焼死体が重なり合うようになって、未だ燻っていた。
関東大震災では10万人以上の生命が失われている。
地震そのもののダメージも大きかったが、火を多く使用する昼食時だった事が被害を甚大にした。
密集する木造家屋は燃料となって、容易に燃え広がっていった。
人間の歴史は災害との戦いの連続だね。これだけ発展した現在ですら自然の脅威に悩まされ続けているからね。
東京大空襲について
日本本土への初空襲は1942年(昭和17)4月18日であった。
爆撃隊の指揮官の名前から”ドーリットル空襲”と呼ばれている。
真珠湾攻撃を成功させた日本は、アメリカ西海岸沖に潜水艦を配置し通商破壊戦を行い、それなりの戦果を収めていた。
本土を脅かされた米国は自国民の士気を高めると共に敵の厭戦感を強める手段として日本の本土空襲作戦を練った。
日本の哨戒線まで接近したアメリカ空母、護衛艦一行は、敵の哨戒船を蹴散らしつつ16機の爆撃機・B25を発進。
B25は日本の各地に爆撃を仕掛けた後、中国大陸へ脱出を試みた。
8名の米兵が日本の捕虜となり、内3名を処刑している。
この処刑がプロパガンダとして利用され『憎きジャップ!根絶してやる!』に繋がっていったみたいですね。まぁ、日本も『鬼畜米英』って煽っていたし、戦争ってこんな雰囲気になってしまうのでしょうね…。
これより実施されるであろう本格的な本土空襲を回避するため、帝国海軍はミッドウェーへ駒を進めていくのだが…。
ミッドウェー海戦で大敗した日本は、次々と要所を奪われ制空海権を失い、遂に本土が脅かされることとなった。
1944年(昭和19)11月24日~1945年(昭和20年)8月15日迄の間に100を超える本土空襲を受けている。
特に被害が大きかった1945年(昭和20)3月10日の空襲を『東京大空襲(ミーティングハウス2号作戦)』と呼ぶ。
強風が吹き荒れる午前零時過ぎ、300機を超えるB29が東京上空に来襲し、焼夷弾による”じゅうたん爆撃”を行った。
木材や紙で作られた日本家屋を徹底的に燃やし尽くすための無差別攻撃であった。
この空襲によって83,000人が死亡、268,358戸の家屋が罹災した。
行方不明者も多く正確な死者数は判明しておらず、実際の死者は10万を超えるのではないかと云われている。
空襲が小規模な内は遺体の身元を調査した後、遺骨や所持品を遺族に渡していたが、激しくなるにつれ処置が追いつかなくなり、公園や寺院、空地などに仮埋葬した。
1948年(昭和23)から3年かけて各所に仮埋葬されていた被害者の遺体を掘り返し火葬して回った。
それらの遺骨は白磁の大壺に納められ東京都慰霊堂に安置されている。
関東大震災、空襲による犠牲者合せて約163,000体の御遺体がここに眠る。
終わりに
負のイメージが強い戦争系の史跡や建築物は、当然の如く心霊の噂が付き纏う。
当サイトは心霊スポットの根拠を考察するサイトであるから、このような場所も扱っている訳だが、歴史を調べている内に『幽霊云々の話』はどうでもよくなってしまう事がしばしばある。
私には霊が見えないので『幽霊云々の話』は霊が見える方々にお任せしようと思う。
ただ心情としては、ここを心霊スポットとして扱いたくない。
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