隅田川六大橋の一基、言問橋。
1923年(大正12)に発生した関東大震災の復興事業の一環として、この橋は架けられた。
それ以前は”竹屋渡し”と呼ばれる渡船場が設けられていたそうだ。
言問橋には心霊の噂がある。
太平洋戦争に纏わる悲劇が関係しているようだが、一体何があったのだろうか?
その歴史を振り返ってみよう。
言問橋へのアクセス
最寄りの駅は浅草駅。
東武線北口改札から江戸通りを北に7,8分程歩いた先にある。
都営浅草線A3出口からだと徒歩約15分。
台東区方面からのスカイツリーがとても映える。
言問の由来
名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
平安時代初期の歌人・在原業平が読んだ和歌が橋の名の由来となっている。
恋する男性の歌です。
言問と言えば橋の名前よりも江戸時代末期に創業され現在まで続く銘菓・言問団子が有名で、団子屋の主人が在原業平の和歌に因んで団子に”言問”を冠したことから、この一帯が”言問”と呼ばれ始め橋名の由来になったという説もあるようだ。
言問橋と太平洋戦争
東京大空襲については以下の記事をご覧頂きたい。
両岸から被災者が押し寄せ鮨詰め状態となった言問橋に、焼夷弾と火炎旋風が襲い罪無き人々を焼き尽くした。
堪らず隅田川へ飛び降りた者も力尽き溺れたり、陸に戻れず凍え死んだ。
空襲が去った後、橋の上は人の脂でテカテカと輝き、真っ黒な遺体が無造作に並べられ、河岸にも夥しい遺体が山のように築かれていた。
墨田公園の桜並木は色彩豊かな布切れが纏わりつき人工花で満開になっていたと云う。
写真は墨田公園にある東京大空襲戦災犠牲者追悼碑。
一帯の犠牲者は墨田公園に仮埋葬され、やがて火葬した後、東京都慰霊堂に納骨された。
終わりに
当記事1枚目の写真は言問橋の親柱だが、よくご覧頂きたい。下部の黒ずみは東京大空襲の壮絶さを物語る焼け跡である、
そして上の写真は戦争当時の言問橋の欄干。熱された欄干に凭れながら焼け死んだ人々を想像してしまい非常に苦しい心持になった。
果たして、ここを心霊スポットとして扱っていいのだろうか?
調査、執筆していると段々と幽霊云々を考える余裕が無くなっていった。
どちらかといえば心霊スポットに否定的な立場を取っているので『心霊スポット撲滅新聞』みたいに改名して運営したほうが心が楽になるかもしれませんね…。
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