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流山市の飛地山について調べたので紹介する【千葉】

飛地山

曰く付きの山を求めて訪れた先はフェンスで囲まれた見事なまでに広々とした更地だった。木々の茂る薄暗い小丘を期待したはずだが、今いずこ。下調べをしない悪い癖の出た衝動的な旅になってしまった。

流山市役所の南に位置するこの場所は飛地山と呼ばれている。その曰くから『血』の字が当てられ飛血山と称されることもあるようだ。どのような言い伝えのある山だったのか?

歴史を振り返ってみよう。

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飛地山の歴史

飛地山

この一帯は駿河田中藩の飛び地領の一つで江戸時代後期には陣屋があった。

1863年(文久3)、藩主・本多正訥によって

“長屋27棟、御殿1棟、土蔵2棟、道場1棟、表門裏町”

の下屋敷が加村の台地に築かれ、江戸深川の下屋敷から移住してきた藩士らが飛び地領の管理を取り仕切った。

その規模は南北に300m、東西に150m程で、現在の地図に照らし合わせると流山市博物館から流山市役所の範囲に入る。

明治時代に入ると政府は葛飾県を成立し、旧田中藩の加村陣屋を県庁としてそのまま利用。

その後、葛飾県は印旛県に合併され佐倉や本行徳に県庁が移されたものの何かと不便だったため再び加村に戻っている。

1873年(明治6)に印旛県と木更津県が統合し千葉県が設立され加村陣屋は役目を終えた。

 

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飛地山の噂

飛地山

飛地山には処刑場があったという噂がある。

文献①所載の”『流山町加村台本多紀伊守仮宅後葛飾印旛県庁』図には御殿・長屋・役所・牢獄等の図を載せており、”

平成25年3月 公益財団法人 千葉県教育振興財団 研究紀要28

文献①は『千葉縣東葛飾郡誌』を指す。

私は原本そのものを読んだことはなく該当の図を模した資料しか見ていないのだが、それらを確認すると牢獄の南に刑場の区画が設けられていることが分かる。

 

飛地山

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1947/10/23(昭22)撮影)

1947年(昭和22)の空中写真。

赤で囲った部分が加村陣屋、黄色が現在の流山市役所、緑が飛地山の区画である。

いちのまる
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厳密ではないですが、こんな感じの区画だと思われます。

『流山町加村台本多紀伊守仮宅後葛飾印旛県庁』の図によると、加村陣屋の御殿や長屋は赤枠の下部を通る諏訪道の北側にあり、諏訪道を挟んだ南側に牢獄、牢獄からやや離れた南方向に刑場があったとしている。

 

※追記

千葉縣東葛飾郡誌を読む機会に恵まれたので、その一部を引用しようかと思う。

尋で葛飾縣と改め水築小相知縣事たり、是に於て南に道を隔てゝ牢獄を造り、五牢を畫し白洲及び獄吏官舎を設け、更に其南に刑場を置き、舊道場及不用長屋を取拂へり

千葉縣東葛飾郡教育会 大正12年発行 千葉縣東葛飾郡誌 1284頁より

 

この記述の次頁に加村陣屋(葛飾県庁)の見取り図が記載されている。

飛地山

千葉縣東葛飾郡教育会 大正12年発行 千葉縣東葛飾郡誌 1285頁より

どうやら葛飾県が成立してから、つまり明治時代に入ってから牢獄や刑場が設置されたようである。

牢獄は『流山市役所 第3庁舎(旧法務局)』の辺りにあったと云う。県庁として活用された期間は5年に満たず、恐らく県庁の閉鎖と共に刑場も閉じられたのであろう。

また1920年(大正9)に発行された流山町誌にも似たような記載があったので引用しておく。

明治二年正月本多藩士は安房國長尾に移り佐々布貞之允支配江戸藥研掘役所を此處に移して加村役所と稱し尋て葛飾縣と改め水築小相知縣事となる此時役所を構内に建設し御殿は知縣事長屋は縣屬の官舎とし南に道を隔てゝ畑七畝十二歩を牢屋とし中に五牢を画し白洲官舎を造り其南畑六畝二十四歩を刑場とす

大正9年発行 流山町誌 第十章 沿革 第二節 舊村誌 流山より

 

飛地山

加村陣屋(葛飾県庁)の区画から現在の飛地山は少し離れており、陣屋内に刑場が収まっていたとすれば飛地山に刑場は存在しなかったことになるが『では、実際はどの位置ですか?』と問われると私にはわからない。

流山市役所の真東にある平和台3号公園の辺りが怪しい気もするけれども正確な位置は不明である。

陣屋の南に広がる小丘全体(流山市役所の区画を含む)を飛地山と呼んでいたならば、飛地山に刑場があったという説もあながち間違っていないのかもしれない。

飛地山の土地開発に当たって住民と業者のやり取りが文書に残ってる。

業者は『飛地山に刑場があったとされているが、専門家を交えた発掘調査の結果そのような、事実はなかった』と結論付けているが、それでは千葉縣東葛飾郡誌や流山町誌の情報は虚偽だったのかという疑問が残る。

刑場がなかったのではなく、今回の発掘区画に刑場が含まれていなかっただけの可能性も考えられる。もし平和台3号公園が刑場跡だったとすればまさにそうである。

 

終わりに

飛地山

流山は戊辰戦争で明治政府軍と新選組が対峙した場所であり、局長・近藤勇と副長・土方歳三の別離の地でもある。

甲州勝沼の戦いで板垣退助率いる官軍に大敗した近藤勇らは江戸に戻り、その後再起をかけて流山へ向かった。

官軍は早い段階で流山に賊軍が駐留している情報を得ていたため迅速に流山を包囲した。戦闘態勢の整っていない敗北必至の状況に策を講じる新選組の幹部たち。近藤勇が大久保を名乗って『散り散りになった兵を取り締まっている』と正当性を主張し官軍に単身出頭を試みるが、途中で正体が露見し、近藤は総督府のある板橋宿へ連行され斬首刑に処された。

杜撰なオカルトサイトでは飛地山の刑場で近藤勇が処刑されたと書いているが、これは完全な誤りである。流山包囲戦の際、官軍が飛地山の辺りに大砲を設置して新選組の本陣を脅かしたのは事実だが。

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