本社者、後冷泉院御宇、伊豫守源朝臣頼義、奉勑定、征伐安倍貞任之時有丹祈之旨、康平六年秋八月、潜勸請石清水、建瑞籬於當國由比郷、今號之下若宮、永保元年二月、陸奥守同朝臣義家、加修復、今又、奉遷小林郷、致蘋蘩禮奠云々。
吾妻鏡 1巻より引用
この八幡社は、後冷泉天皇の御治世に源頼義が勅命を受けて東北の安倍貞任の征伐の際に心から願う事あって、康平6年(1063)秋8月、石清水八幡宮よりひそかに勧請し、当国の由比郷に瑞籬(聖域を囲う垣)を建てた。今はこれを下若宮と称する。
永保元年(1081)2月、源義家が修復を加え、今(鎌倉時代)また小林郷に遷しお供え物をした云々。
これが源氏ゆかりの八幡社・鶴岡八幡宮の始まりである。
鶴岡八幡宮HPの言葉をお借りすれば古くより“武士の守り神”として崇められ現在に至るまで“鎌倉の守り神”として堂々たる威厳を保ち続けている。
御祭神は八幡社の三柱『応神天皇』『神功皇后』『比売神』。
応神天皇と神功皇后は、熊襲討伐へ向かい九州で崩御したと伝わる第14代・仲哀天皇に関係する皇族だが、どのお方も実在説と非実在説とが論じられている。
比売神はよくわからない!
国立国会図書館ウェブサイト 新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二 村里部より引用
新編相模国風土記稿で見る鶴岡八幡宮の絵図を確認すると由比ガ浜まで参道が延びていたことがわかる。
鎌倉時代初期に執権・北条氏に反旗を翻した和田義盛は由比ガ浜と若宮大路で幕府軍と激しい戦闘を繰り広げたそうだが、1枚目の絵図の辺りが戦場になったのだと思われる。
鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞は由比ガ浜の西に位置する稲村ヶ崎から攻め入ったと伝わる(諸説有)ので、やはりここから鎌倉の中心に攻め込み北条高時らを自害に追い込んだのだろう。
ところで鶴岡八幡宮に信じられない噂があるのをご存じだろうか?
どうやら幽霊が出るらしい。
と言ってもネットの情報で、しかも何処の心霊サイトでも紹介されている訳ではなく、極一部の方々が吹聴するに留まっているのだが…。
内容は心霊写真が撮れただの、武者の霊が出ただの、ただならぬ気配がするだの、そんな感じ。
私は霊的なものを一切感じないし見えない人間なので、偉そうなことは何も言えないのだけれども、鶴岡八幡宮に幽霊が出没するとはこれ如何に?
全く信じられない話である。
ここで暗殺された三代将軍・実朝公の幽霊でも御登場なさるか?
鶴岡八幡宮には源氏池と平家池があり、ここに霊が現れると云う。
源氏池には3つの島が、平家池には4つの島が浮かんでいる。
元々、源氏池にも4つの島があったそうだが『死』を連想させることから1つ島を取り壊し3つにしたらしい。
3を『産』解し源氏の繁栄を願った。そして平家には『死』を…。
嘘か本当かは知る由も無いけれど、こんな話に尾鰭が付いて幽霊の話になっていったのかもしれないね。
終わりに
鶴岡八幡宮の本宮は撮影禁止だったので階段の下から楼門だけ撮影。
このあとは軽く参拝をして、このあと源頼朝の墓や北条高時の腹切りやぐらへ向かった。
鎌倉の歴史旅は本当に有意義である。
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