箱根のお玉ヶ池の由来。関所破りのお玉は捕縛され、その後…

お玉ヶ池

箱根芦ノ湖東岸から北西に1km、下二子山の麓のお玉ヶ池。

古くは薺ヶ池(または奈津那ヶ池)と呼ばれていたが、とある悲しい事件によってお玉ヶ池と呼ばれるようになった。

時代は江戸時代中期。一体ここで何が起きたのだろうか?

 

お玉ヶ池の場所

お玉ヶ池

国道1号線元箱根の交差点を『御殿場、宮ノ下、仙石原』方面へ。

600m先の三叉路を畑宿方面に入り道なりに進むと左手にお玉ヶ池が見えてくる。

お玉ヶ池の手前に駐車場がある。↓のgooglemapにある『P』が駐車場。

 

 

お玉ヶ池について

お玉ヶ池

元禄十五年(一七〇二)閏四月二十七日、伊豆大瀬村太郎兵衛の娘、お玉は関所破りの罪で処刑されました。お玉は奉公先の江戸新田嶋から国元に帰る途中、手形がないので、箱根関所を通ることができず裏山を通り抜けようとしたのです。処刑は、お玉が本道をそれて裏山である屏風山に踏み入った坂道の所で行われ、お玉の首を薺ヶ池で洗ったともいわれています。このためいつのころかこの池がお玉ヶ池、お玉坂と呼ばれるようになりました。

現地案内板『十五、お玉ヶ池』より

関所破りは大罪で磔に処されるはずだったが、温情を受けたのか?お玉は獄門に減刑された。

磔刑は身体を柱に括られて脇腹から肩に向けて槍を突き刺す処刑。両側から数回刺すので上半身は次第に形が崩れぐちゃぐちゃになったそうだ。磔のまま放置された後、穴に放り込まれ野生動物に荒らされたと云う。

獄門は首を落され晒される処刑。

どちらも死罪に変わりは無いけれども、一瞬で死ねることを考えれば獄門の方がまだいいと私は思う。

元禄十五年(一七〇二)二月十日夜、豆州大瀬村(靜岡県南伊豆)の百姓太郎兵衛の娘お玉が、江戸の奉公先から郷里に帰える途中、箱根関所を山越えに忍び通ろうとして捕えられてしまいました。関所破りは大罪です。お玉が四月二十七日、笈平で、磔獄門に処せられました。お玉の死を憐れんだ人々は、処刑場所近くの坂道をお玉ヶ坂、当時までは、奈津那ヶ池と呼ばれていたこの池を、お玉ヶ池と呼ぶようになりました。

『お玉ヶ池の由来』より

こちらはお玉ヶ池の石碑の裏面から引用。

ここでは『磔獄門に処せられました。』となっているが、箱根関所関連でお玉さんの処刑について調べてみると獄門に減刑されたと紹介されることが殆どなので獄門に減刑されたのが正しいか。

江戸時代の処刑について調べていると『関所破りの罰が磔刑になったのは徳川吉宗が御定書百箇条が発布されてから』という情報があった。これが正しければ御定書百箇条の発布以前であれば関所破りが必ずしも磔刑ではなかった可能性がある。

御定書百箇条にどのように書かれているのか気になって調べてみた。(御定書百箇条は18世紀半ばに成立)

二十 關所を除山越いたし候もの幷關所を忍通候

御仕置の事

一 關所難通類山越等致候者 於其所磔従前々之例 但男に被誘引山越いたし候女は奴

一 同案内いたし候もの 於其所磔同

一 同忍通候もの 重き追放同 但女は奴

一 口留番所を女を連忍通候もの 中追放同 但女は領主へ可相渡

山越え等をして関所を通り抜けた者は、その場所において磔(先々よりの例)、ただし男に誘われて山越えをした女は奴

『前々からの例でその場所において磔刑』とあるので御定書百箇条が定められる前からそのような慣習があったのだと思われる。

やはりお玉さんは磔刑から獄門に減刑されたのだろう。見せしめとして殺さねばならなかったが、まだ子供のような若い女性を残酷な磔で処刑するのは余りに気の毒だと役人が判断したのかもしれない。

 

終わりに

お玉ヶ池

湖畔にもう一つ説明板があった。随分と年季が入っている。そのうち撤去されるか自然に朽ち果てるだろう。なので記念に撮影した。

お玉ヶ池には白い着物を着た幽霊が出ると噂されている。

私は見えないし感じないタイプの人間なので、はっきりとしたことは言えないが、未だにお玉さんの霊が彷徨っているということなのだろうか?

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