関東七名城の一つ、唐沢山城へ。
唐沢山城の築城時期ははっきりしていない。平将門を滅ぼした藤原秀郷によって築城されたという伝承があるけれども、これは伝説の域を出ず、実際には15世紀になってから城郭として整備され始めたのではないかと考えられている。
唐沢山城を居城として一帯を治めた佐野氏が藤原秀郷の流れを汲むために秀郷築城説が起こったのであろう。
城跡には藤原秀郷を御祭神として奉る唐沢山神社が鎮座する。
唐沢山城へのアクセス
最寄りの駅は東武佐野線の田沼駅。駅から唐沢山城まで歩きで40分程度。
自動車なら佐野田沼ICが近い。山頂に広めの駐車場があるので車でも安心。
戦国時代の北関東は強豪大名に囲まれていたため地域の豪族らは大変苦労した。
唐沢山城の佐野氏も例に漏れず越後の上杉謙信と相模の北条氏康・氏政の間を右往左往し何とか生きながらえている。第15代当主の佐野昌綱は上杉・後北条両氏に何度も攻め立てられたが、徹底籠城で敵を退けたり、時には降伏開城したりして巧みにこれを捌いた。
特に上杉謙信は昌綱に辛酸を嘗めさせられたが、どういう訳か殺さず生かし続けた。佐野の地を治世するためには彼の力が必須だったのかもしれない。
昌綱没後、嫡男の宗綱が跡を継いだ。宗綱は武勇に優れた当主であったが、須花坂の戦いで敵を侮り討ち死にしている。
宗綱には跡取りがなかったため他家から養子を迎える必要に迫られた。家中では常陸の佐竹氏派と相模の後北条氏派で対立したが、後北条氏派に軍配が上がり、こうして佐野氏は後北条氏の傘下に加わることとなった。
その後、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏は滅亡する。しかし佐野氏は断絶しなかった。継嗣問題の際に佐竹氏の養子を迎えるべきだと主張した佐野房綱(天徳寺宝衍)らが豊臣秀吉の味方に付いていたため再興を認められたからである。
こうして大名家として存続した訳であるが、江戸時代前期に改易され領地を失ってしまう。佐野氏に養子として入った佐野信吉の兄・富田信高が幕府に咎められ改易された際、これに巻き込まれ連座させられたからである。
後に信吉は許されて子孫は江戸幕府の旗本になって幕末まで存続した。
終わりに
『しんれい新聞』は心霊スポットを扱うサイトであるから、それについても多少は触れなければならない。
唐沢山城は鎧を着た幽霊が出ると噂されているらしい。古戦場だったからだろうか?
唐沢山城は古戦場ではあるけれども、歴史に語り継がれる程の戦死者は出ていないと思われる。恐らくそうなる前に思慮深い佐野昌綱は降伏を選択したのだろう。
城兵が悉く玉砕した北九州の岩屋城や兵糧攻めで地獄絵図と化した鳥取城のような古戦場に幽霊が出ると云われれば、心情的に理解出来なくも無いが、そういった凄惨な描写のない唐沢山城に幽霊が出ると云われても、いまいちしっくりこない。
ただ、これまで多くの心霊スポットを調査して気づいたことがある。
死者の多寡と霊の出現率は殆ど関係がないらしい。
つまり、多くの人間が亡くなった場所であるにも拘わらず幽霊の噂が全く無い場合もあるし、一人しか亡くなっていないのに幽霊が出ると噂される場合もあるということだ。
こういった話は幽霊の見えない私が語っても埒が明かないので専門家に任せるとしよう。
コメント
例えば、関東最大の野戦と言われる神流川合戦の地においても、北条勢5万と滝川・上州勢1万8千が衝突した激戦地であり、死者も両軍併せて数千に達するほどであるのに、心霊スポットとしては大して話に挙がりません。首塚や胴塚も史跡として残っているくらいなのに、です。
どうなればスポット化するのかなど曖昧もいいところと言えましょう。
剣刀太子王さん
こんにちは!
17号沿いに古戦場跡がありましたね。むかし一度だけ見に行きました。
本当、曖昧ですよね