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武田勝頼による膳城素肌攻めとはどんな戦い?【群馬】

群馬県赤城山の南麓には意外と多くの城跡があります。

剣聖・上泉信綱が生まれたとされる上泉城、大胡氏が居城にした大胡城、豊かな水に囲まれた女淵城、槍の達人・山上道及がいた山上城、そして今回紹介する膳城。

『群馬県にはこんなところもあるのよ~』って知っていただければ幸いです。行く価値があるのかと問われれば『う~ん……。』って感じですが、そんな日の当たらないスポットへ訪れるのが私の数少ない楽しみの一つなのです。

それでは参りましょう!

 

膳城跡へのアクセス方法

膳城跡

膳城跡へのアクセスは電車なら上毛電鉄を使って膳駅で下車して10分ほど歩けば付きます。

車ならカーナビで粕川歴史民俗資料館を調べれば多分行けると思います。

↓の地図を参考にしてください。

 

膳城跡について

膳城跡

膳城の築城年代は不詳です。

鎌倉時代の文書に”善氏”の名が出ているようですが、この場所に館を構えていたのかはわかっていません。

室町時代から戦国時代の書物にもたびたび出現し上野国(群馬県)を狙っていた武田、上杉、後北条の戦記物には度々”善氏”が見れることから現在の膳城は戦国時代の中頃に現在の形になったと推測されています。

 

膳城素肌攻めとは

膳城跡

時は1580年(天正8)。

厩橋城(前橋城)を接収した武田勝頼は伊勢崎、大胡、山上の諸城を攻め落とし、境界の巡察を命じました。武田勢は戦うつもりがなかったので、平服のまま小さな旗だけ掲げて膳城の近くに差し掛かりました。

膳城内では、兵をねぎらうため酒宴が開かれていたのですが、酒がまわり口論から発展して乱闘騒ぎになってしまいます。

武田勢が城の周囲を偵察して引き揚げていくのを見た城内から眺める雑兵。酔っぱらっていたのでしょうか?数名が武器を持ち城外に出て武田勢を追います。

驚いた武田勢は敵を追い返すためその場の兵を集め抗戦しました。

互いに戦い準備ができていなかった状態でしたが、武田勢が押し返し、そのまま勢いで膳城を落城させました。

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平服で攻城戦を制したため『膳城の素肌攻め』と呼ばれるようになったそうです。

私が参考にした書籍では↑のような紹介がされていましたが、書籍によって戦いの様子が異なります。

国繁公御代、善の城落城の事

天正八年の春、甲斐国武田勝頼、西上野へ働候処ニ、安中衆をかたらい、其外在々の野伏とも道の案内者として、さねまたの渡を取越へ、膳の城へ夕七ツ時分、勝頼殿懸候て、日暮に落城仕候、是ハ武田衆其日ハ朝六ツ前より直肌にて、小旗も不差、渡りを二騎・三騎計ツ、旅人の体にて渡し、在々所々、或ハ寺内へそろそろと人数をくり入、時取を定て千四五百の人数、相図の太鼓にて大返しに致し一時攻に仕候、膳の城主膳弥四郎手勢与力共に三百余にて防申候処ニ、城中よりうら切の者ニて持口を防候体にて敵を城中へひき入、弥四郎に腹を切せて、其身ハ武田勢に降参

(中略)

勝頼ハ城を焼払、そのままさねまたを渡し引取被申候

(後略)

1997年(平成9)発行 太田市史 通史編 中世 武田氏の東上野進出より

原文は難し過ぎて読めなかったので孫引きになってしまい恐縮ですが、↑の文章は上野国新田由良御家伝記の一節です。

赤字の箇所が膳城の素肌攻めの根拠になっているのだと思われます。武田方の書状には素肌攻めのことが書かれていないので、本当に素肌攻めが行われたのかは不明です。

 

終わりに

膳城跡

この建物は粕川歴史民俗資料館です。

残念ながらこの日は休館日でした……。民俗資料や考古資料を展示されています。

実家のすぐ近くにあるので帰省した際に訪れてみようかと思っています。

コメント

  1. 剣刀太子王 より:

    膳城攻めについては武田勝頼自身が書いた書状が残されており、彼が膳城を攻め落としたのは事実ですが、「素肌」つまり平服で攻め落としたとは言ってません。
    あくまでも軍記ものに記されているにすぎず、史実と証明されてはいないようです。

    • いちのまる より:

      剣刀太子王さん

      こんばんは!コメントありがとうございます。
      確かにそうですね。
      素肌攻めの根拠になったであろう『由良御家伝記』の一節と史実かどうかわからない旨の一言を追記しました。

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