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妙義山の石門めぐりと中之嶽神社の黄金大黒様【群馬】

妙義山の初心者向けの登山道・石門コースを登ってきました。

ついでに登山口の近くにあった中之嶽神社の巨大な黄金大黒様もついでに見てきましたのでご紹介します。

それでは参りましょう!

 

石門コースと黄金の大黒(中之嶽神社)へのアクセス

妙義山の南側を通る上毛三山パノラマ街道(県道196号)を走っていればいつか着きます!最寄りのICは松井田妙義です。

石門への登山道は中之嶽神社からも入れますし、神社から街道を北に歩くと別の入口もあります。

 

日本三大奇勝の一角・妙義山の風景

妙義山の石門めぐり

『上毛かるた』で紅葉に映える妙義山と謳われています。妙義山の紅葉の素晴らしさを端的に表した良い句だと思います。

写真は紅葉に映えてない妙義山ですが。残念ながら私は紅葉期の妙義山を拝んだことがありません。

いちのまる
いちのまる

夏は夏で美しいのですが、やっぱり秋だよね。

妙義山は日本三大奇勝に数えられています。他のふたつは香川県の寒霞渓と大分県の耶馬渓です。

 

石門めぐりへ

妙義山の石門めぐり

念のため登山届に記入して登山を開始。この辺りは熊が出るようです。鈴を装備!

いくつかの登山道が存在しますが、今回は石門めぐりと呼ばれるコースです。

 

かにのこてくらべ

妙義山の石門めぐり

最初の鎖場。鎖がなくてもなんとか登れるレベル。

迂回ルートも用意されていました。

 

第一石門

妙義山の石門めぐり

一枚岩が長い年月をかけて侵食され穴が開いたらしいです。

 

かにのよこばい

妙義山の石門めぐり

たぶん、妙義山の鎖場で一番有名な場所です。

難易度は低いですが、落ちたら大怪我する高さです。最悪、死んでしまうかもしれません。

 

第二石門

妙義山の石門めぐり

たてばりというかなり急な岩を登っていきます。ここもさほど難しくないです。

 

つるべさがり

妙義山の石門めぐり

鎖を使って斜面を下りるのですが、ここは怖かった。

前日に雨が降ったらしく滑る滑る……。なんとか下りられました。

 

片手さがり

妙義山の石門めぐり

写真だとわかりづらいですが、結構高いです。まぁまぁ、怖かった。

 

第三石門、第四石門

妙義山の石門めぐり

 

妙義山の石門めぐり

第三石門、第四石門(の看板)。

看板だけ撮影して石門の写真は撮らなかったようです。何たる不覚……。

また行く機会があったら撮ってこようかと思います。

 

大砲岩

妙義山の石門めぐり

今回はこの大砲岩を目指して登ったのですが、通行止めで行けませんでした。

小学校の遠足かなんかで妙義山に登ったときに体育会系の先生が大砲岩に登って手を振っていた姿が記録に残っていて『いつか、私も……』と思っていたのに。残念。

 

見晴らし台

妙義山の石門めぐり

下山途中に見つけた石祠。ここは見晴らし台になっています。

 

上毛かるたと妙義山

妙義山の石門めぐり

後々、写真を見て気づいたのですが、ここが上毛かるたの絵札の場所みたいです。(群馬の人しかわからないだろうけど)

石門めぐりは初心者~中級者のコースのため比較的簡単で事故や遭難は少ないです。しかし上級者コースは非常に危険で、遭難や死亡事故が発生します。上級を目指すなら万全の準備を整え臨みましょう。装備だけでなく、身体の鍛錬も必須です。

下山は中之嶽神社に抜けるルートを選びました。

 

中之嶽神社

妙義山の石門めぐり

中之嶽神社拝殿。

左側の岩がご神体なので本殿はありません。拝殿が岩と繋がっています。

寿永年間、藤原祐胤創めて祠堂を建立せり後織田信長の時、北條氏の臣加藤長清此山に來〇終業せしを本郡小幡城主織田筑前守深く之に歸依して戰國擾亂の際に尚廢頽せる堂宇を再興せり、後松平攝津守の封を此地に移すや當山を祈願所として巨額の資を投じて壯嚴なる殿堂を建築せしかど文久三年火災にかゝり全部灰燼に歸〇當時天を摩して欝蒼たりし老松古杉皆枯れたりといふその後領主の出資によりて再建せられたるも明治十五年三月荒船山に興りたる山火災は烈風に乘じて飛火し當山亦烏有に歸せり、現今の祠堂は後社掌工藤氏の經營に成れるものなるが出資者なき今日なれば今は昔の面影もなき有樣なり、當山に弘法大師の奉齋せる大國主命所謂大黒天の木像は其後幾度か改造せられし由なるがその御影は最初と變りなく右手に利劍を持する奇形なるものなり本社奧宮の傍に長清道士の碑と墳墓あり八丈が窟は道士の穴居の跡なりと傳ふ又道士は齢百四十八歳を保てりと云ふ。

1922年(大正11)発行 寺島平三郎 編 妙義之峻嶺より

寿永年間(1182~1184)、藤原祐胤が初めて祠堂を建てました。

織田信長のときに北条氏の家臣である加藤長清がこの山に来て終業(仏教の修行を終える意味?)すると小幡城主の織田筑前守(織田信雄の関係者?)は深くこれに帰依して戦国の争乱の際に廃頽したお堂を再興しました。

松平摂津守(松平忠恒?)がこの地にやって来ると当山を祈願所として巨額の資金を投じて立派なお堂を建てましたが、文久3年(1863)に火災が起き、全てが燃え尽きてしまいました。当時、天に届くようにそびえたつ老松や古杉はみんな枯れてしまったと伝わります。

その後、領主の出資によって再建されましたが、明治15年(1882)3月に荒船山で起こった火災が烈風に乗って飛火して当山はまたも燃え尽きてしまいました。

現今(大正時代)の祠堂は工藤氏の経営によって行われているけれども、出資者がないため昔の面影は残っていません。

当山に弘法大師が祀った大国主(大黒天)の木像は、幾たびか改造されましたが、その御影は最初と変わりなく右手に剣を持つ珍しいものです。本社奥宮のそばに長清道士の碑と墓があり、八丈が窟は道士の穴居の跡だと伝わります。また道士は148歳まで生きたと云います。

中之嶽神社に関する情報は少ないのですが、2度の大火事によって諸々が焼失してしまったのが理由かもしれませんね。

 

黄金大黒様

妙義山の石門めぐり

日本一の黄金大黒様

高さ20m、重さ8.5t。

いちのまる
いちのまる

子供の頃に来たときは無かった気がする。

関東一円に広がる甲子構中・中之嶽大国神社氏子・崇敬者各位が協力して平成17年日本一のだいこく様を制作し奉納しました。

だいこく様のお姿は剣を持つめずらしい姿で、病や厄、悪霊を祓い福を招くと言い伝えられています。

妙義山 中之嶽神社 HPより

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