天下分け目の合戦。
1600年(慶長5)に起きた関ヶ原の戦いは現地だけではなく各地の大名や浪人らの思惑が入り乱れた壮大な戦いになりました。九州では豊後大友氏の再興を目指す大友義統と九州統一を狙った黒田官兵衛(如水)が別府の石垣原で死闘を繰り広げています。
結論から言いますと、この戦いは黒田官兵衛の勝利で大友義統の再興の夢は叶いませんでした。
今回は石垣原合戦古戦場に関わる史跡に訪問してきましたので、風景と共に歴史を紹介しようかと思います。
石垣原の戦いについて
豊後国の大友宗麟は薩摩国の島津氏との戦い(豊薩合戦)で追い詰められたため、豊臣秀吉の傘下に入り助けを乞いました。
秀吉の援軍により窮地を脱しましたが、宗麟の息子・義統は秀吉の怒りを買い改易処分となっています。
これは朝鮮出兵での失態を咎められたからだといわれています。
大友義統本陣跡
秀吉が亡くなった後、義統は赦され再び豊臣の傘下に入りますが、豊後の領地が返されることはありませんでした。
関ヶ原の戦いでは息子の大友義乗が徳川家康に従ったため、義統も初めは東軍の味方になるつもりでしたが、毛利輝元や石田三成に『西軍の味方をするなら豊後領を与えよう。』と誘われたため西軍の将軍として九州に入り別府の立石に陣を構えます。
しかし、戦場での相手は百戦錬磨の将・黒田官兵衛と細川忠興でした。
大友左翼・宗像掃部鎮統の陣跡
散りぢりとなった旧臣の一部が大友氏の再興を目指して義統の軍に加わります。
宗像掃部(むなかたかもん)は恐らく福岡県の宗像大社に縁のある人物だと思われますが、詳細はわかりません。
彼は御堂原の台地に布陣し大いに奮戦し、激戦の中で討ち死にしたといわれています。
御堂原からの眺め。
真ん中の仏舎利塔がある小高い山の一帯に黒田・細川軍は陣を敷きました。
大友右翼・吉弘統幸の陣跡
吉弘統幸は豊後大友氏の重臣の高橋紹運や立花宗茂と同族です。
とても優秀な一族でした。統幸は東軍に付くべきだと義統を説得しますが、譲らないため仕方なく西軍として戦いました。
吉弘統幸陣からの眺め。
黒田・細川本陣がよく見える位置です。(マンションが無ければ)
吉弘統幸は黒田・細川本陣がある実相山の麓まで迫っています。しかし、逆襲を受け討ち死にしています。
勝てないと思っていた統幸は忠義のためだけに戦ったのでしょう。
石垣原古戦場跡の碑
ここには石垣原の戦いで戦死した兵を弔う五輪塔や供養塔が並んでいます。
吉弘統幸の辞世の句が石碑に刻まれていました。
あすは誰が 草の屍や てらすらん
石垣原のけふの月影
激戦地の七ツ石
両軍は山を下り何度も刃を交えました。
この七ツ石付近で激しい戦闘が行われ、原野は真っ赤に染まったと伝わっています。
戦場跡には七ツ石稲荷神社と七ツ石温泉があります。
黒田官兵衛本陣跡
黒田官兵衛の九州攻略にどのような思惑があったのか?
官兵衛は九州にある西軍の城を落としつつ敵兵を仲間に受け入れ軍を拡大させていきます。官兵衛の野心を表す逸話が有名ですね。
徳川家康をどう出し抜こうかと考えていた可能性があります。豊臣秀吉の懐刀であった官兵衛からすると『なんでお前(家康)が……。仇を。』という感じだったのかも?或いは秀吉の後継者は自分が相応しいと思っていたのかもしれません。
黒田先行隊・時枝鎮継陣跡
時枝氏は宇佐神宮弥勒寺の寺務方を代々務めた家系です。
反大友勢力で九州征伐後に豊臣秀吉に従い黒田氏が中津に入封してから協力するようになりました。
石垣原の戦いでは主力武将として先行隊を任されています。
黒田・細川の本陣跡
黒田・細川軍はここ実相山に本陣を構えました。仏舎利塔が建っています。
実相山から見る景色。
写真真ん中の山の麓辺りが大友義統本陣。左端の麓に吉弘統幸の陣がありました。

お互いの軍がよく見える位置で戦ったのですね。
大友軍約2000人。黒田軍約10000人。序盤こそいい勝負出来ましたが多勢に無勢。大友勢は兵士と重要な家臣たちを失い、やがて降伏します。
終わりに
大友義統は海雲寺で剃髪し降伏しました。義統は幽閉され1605年に無念の内に亡くなります。
官兵衛は石垣原の戦いが終わるとすぐに西軍の城を落とし更に進軍します。しかし、徳川家康から進軍中止の命が下りそれに従います。
その後はご存知の通り江戸幕府が開かれ、しばらくの間日本に平和が訪れましたとさ。
コメント