国道122号線にある城下トンネルは、一見すると何の変哲もないトンネルだが、心霊スポットとして有名で様々な噂が飛び交っている。
城下トンネルがどのような理由で心霊スポットになってしまったのか見ていくことにしよう。
城下トンネルの場所
国道122号を走っていればいつか着く。
詳細は以下のmapで確認していただきたい。
電車で向かうならわたらせ渓谷鉄道の本宿駅から歩いて10分ほどの場所にある。
城下トンネルについて
城下トンネルの外観。
写真は栃木方面から撮影したもの。
夜はこんな感じ。
トンネルの上部に学生塾があると噂で聞いたので、確認のため脇道を登ってみた。
登ってすぐのところに塾のような建物を発見。
その横にトンネル上部へ繋がっているであろう獣道を見つけたので進む。
うっすらと道が先に延びているので草木をかき分けながら前進。
足場が悪い上、かなりの急斜面だった。
夏場に訪れるべきではなかった。
虫が飛び交い、それを狙う蜘蛛の巣が絡みつく。
バルブを発見。さらに進む。
動揺していたのか?写真がブレブレである。
道が無くなった。
少し方向を変えて藪に突き進む。
すると栃木側の上部に出た。
滑車が付いている。
何の名残だろうか?
謎の階段を発見した。
階段を下りるとトンネル上部のフェンスの所まで延びていたが、最上部は途切れていた。
付近をしばらく探索していると……。
城下トンネルの水神碑
なんと石碑を発見!
草書体で『水神』と彫ってある石碑。
城下トンネルが心霊スポットとされる理由の一つに『カスリーン台風』がある。
城下トンネルの横を流れる渡良瀬川はダムが建設されるまで、頻繁に洪水を起こし周辺の住民は大変苦しい思いをしたと云う。
恐らくこの石碑は水害被害者を弔うと共に『今後水害による事故が起きませんように』と願いを込めて建立されたのであろう。
追記(2019.3.17)
群馬B級スポットの運営者・もぎさんからこの石碑について連絡をいただいた。
もぎさん曰く、
『石碑の場所は大正時代に作られた川口水力発電所の水槽跡です』
『発電所が大正12年竣工、昭和39年廃止。石碑の建立も同じ年なので間違いなく発電所関連の石碑ですね〜』
とのこと。
今昔マップ on the webより作成
左側は昭和15年12月28日発行の地図。
城下トンネルのすぐ左に発電所の地図記号がある。
となるとカスリーン台風以前に水神の碑は建てられていたということになる。
発電所の守り神として建立されたのかもしれない。
この石碑が水害の慰霊碑だったら心霊スポットと結びつくが、どうやら違ったようだ。
トンネル付近で交通事故が多発するという理由で建立された供養塔。
霊が先か事故が先かを知る由はないが、この慰霊碑が心霊スポットの所以の一つになっていることは間違いないだろう。
これ以外にも心霊スポットの根拠とされている噂がある。
1.近くに城があって攻め滅ぼされ虐殺された。
2.トンネル上部に処刑場があった。
3.足尾銅山から脱走してきた強制労働者が力尽きるくらいの距離にある。
などなど。
1.近くに城があって攻め滅ぼされ虐殺された
トンネル近くに深沢城跡がある。
この城は渡良瀬川の流域の豪士として知られる阿久沢氏によって築城された。
従属していた後北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐により滅ぼされ廃城となった。
阿久沢氏は康平5年(1062年)に源氏から安堵の地としてここ深沢郷を与えられた。
戦国時代は越後の上杉氏、相模の後北条氏との間で悪戦苦闘しながらも生き抜いている。
小田原征伐で主君の後北条氏が滅亡した後は、帰農して静かに過ごしたと伝わる。
というわけで攻められて虐殺されたという過去は誤り。
2.トンネル上部に処刑場があった
処刑場の有無は不明。
城下トンネルはやや高い位置にある。
処刑場を設置するなら河岸に近い方が何かと便利だと私は思う。
3.足尾銅山から脱走してきた強制労働者が力尽きるくらいの距離にある
脱走者は険しい山を越えていくか、渡良瀬川に沿って下流に向かうしか方法が無い。
足尾銅山から城下トンネル迄、凡そ25km。
悪路をひたすら進む脱走者にとってはかなりの長距離である。
どれだけの脱走者がいたかは知らないが、この付近で集中的に力尽きるとは思えない。
ここに関所があったり、川に堰があったりしたなら可能性はあるだろうか?
終わりに
心霊スポットの根拠としては交通事故の多発と、被害記録が残っているカスリーン台風説に説得力がありそうだ。
事故についてだが、ここだけに限らず国道122号(大間々~足尾間)そのものが事故多発エリアである。
実際に運転するとわかるが、急カーブを超スピードで駆け抜ける車がかなり多い。
無駄死にを避けるため、安全運転を心掛けよう。
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