東京都の心霊スポットの中で群を抜いて恐怖度が高いと噂される八王子城跡。
一体どんな曰くがある場所なのか?
その根拠を紐解いてみよう。
八王子城跡への行き方
八王子ICを左に下り、国道16号の八幡町交差点を右折し国道20号へ。
町田街道入口の交差点を右折。城山大橋のY字路を左。中央自動車道の高架下をくぐってすぐに八王子城跡入口の信号があるので、そこを左折すれば辿り着く。
混んでいなければ八王子ICから30分くらいの距離にある。
八王子城の歴史
八王子城は戦国時代に関東一帯を支配していた後北条氏の居城・小田原城の支城である。
築城年については諸説あるが、1582年に北条氏照が築城したと伝わっている。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐の過程で八王子城は攻め落とされて、後に後北条氏は滅亡した。
小田原征伐の概要をざっくり見ていこう。
小田原征伐までの歴史
1582年に起きた本能寺の変で織田信長が明智光秀に誅殺された。
同年、中国地方で毛利輝元と対峙していた豊臣(羽柴)秀吉は、信長の横死を聞き入れ常人離れした速度で近畿地方へ引き返した。
山崎の戦いで仇敵・明智光秀を滅ぼした後、賤ヶ岳の戦い(1583年)で柴田勝家、小牧・長久手の戦い(1584年)で徳川家康・織田信雄に苦戦しつつも戦略的勝利を収めている。
そして四国攻め(1585年)、九州平定(1586~1587年)と順調に日本を統治していった。
西日本を治めた秀吉は、やがて関東地方に駒を進める。
こうして小田原征伐が始まった。
小田原征伐について
豊臣軍は『西国勢の豊臣・徳川軍、海路勢の長宗我部・宇喜多・九鬼軍、北国勢の前田・上杉・真田軍』の三手に軍を分け関東に侵攻。
この中で八王子城を攻めたのは北国勢の前田・上杉・真田軍。
北国勢はまず松井田城(群馬県安中)で投降した後北条氏重臣の大道寺政繁を先頭に配置し進軍を再開した。
投降兵に道の案内と敵情把握をさせ、上野(群馬)や埼玉の武蔵(埼玉)の城を攻略していった。
大道寺政繁の導きによって難なく八王子城まで辿り着いた北国勢は籠城兵に投降を勧めたが、籠城兵は『玉砕覚悟である!』と投降使者を殺害し、ここに戦いの火蓋が切られる。
八王子城の戦いについて
北国勢は投降した後北条氏の諸将を先駆けとし籠城兵と戦わせた。
主家を裏切った彼らとしては武功を挙げねば未来が無い。故に必死で戦った。
八王子城は、つい先日まで味方だった同士が殺し合う地獄絵図となった。
城攻めは深夜に始まり、下層の曲輪から徐々に攻略され、北条氏照の館である御主殿も占領されてしまう。
八王子城落城
前田軍は着々と兵を進め中腹にある金子曲輪を奪取。
ところが山頂付近の曲輪で必死の抵抗にあい苦戦を強いられている。
しばらく膠着状態となったが、上杉軍が緊縛を破る。
上杉軍は地元住民を懐柔し裏道(現在の棚沢道と言われている)を案内させ奇襲を仕掛ける。
この奇襲によって八王子城の守備は瓦解。
城内は大混乱に陥り、後北条氏の重臣たちは自刃もしくは討ち死していった。
両軍合わせて1000人以上の死者を出した凄惨な戦いであった。
八王子城の惨敗を見せつけられた小田原城の後北条氏は遂に降伏する。
戦争責任で前当主の北条氏政、氏政の弟の北条氏照(八王子城城主)、不忠の罪で大道寺政繁(松井田城城主)、松田憲秀(重臣)が切腹に処され、当主の北条氏直は徳川家康と親戚関係にあったため助命され高野山へ追放された。
その領地は徳川家康に引き継がれることとなった。
御主殿の滝
1000人以上が戦死した古戦場であるから、当然の如く城跡そのものに心霊スポットの噂があるのだけれど、写真の御主殿の滝は特に有名。
『御主殿の曲輪が攻め落とされ、行き場のなくなった女、子供達が自刃して滝に身を投じた。その後、三日三晩、城山川の流れが真っ赤に染まったという…。』
という伝説が噂の発端。
訪問時に八王子城の裏道(殿の道)を案内してくれた方が『当時は地形が異なっていて、もっと激しい滝だったかもしれない。』と仰っていた。
滝の傍らには戦没者のための供養塔が建ち、今も尚献花が手向けられている。
終わりに
以上のような歴史があるため、曰く付きの場所として知られるようになった。
確かに八王子城の戦いは大規模で死者の数も非常に多い。
ただ、戦国時代を見渡せば日本各地で合戦が起きており『ここに噂があって、ここには無いの?』と思うことがしばしばある。
そこらじゅうで人間って死んでいるからね。心霊スポットの定義ってよくわかりません。霊が見えると世界が変わって見えるんだろうな。
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