中津城下東には寺町という寺院密集地帯がある。
中津だけに限らず戦乱の世の城下町には往々として寺院が防衛施設として築かれていた。
『広く塀で囲まれた様は将に砦そのもので有事の際には兵隊が寝泊まり可能、そして万一敵襲があれば鐘で町中に知らせることも出来る。』といった感じの理由からである。
今回訪問した合元寺もそのうちの一つの寺院で、他のどの寺院よりも一際目立っている。
もし何も知らずに合元寺の前を通ったなら『えっ。何この寺?なんか怖いんだけど…。』と思う方も少なからずいるだろう。
夜なら猶更だ。
実際、心霊スポットとしても有名みたいです。
合元寺へのアクセス
自動車で向かうなら中津駅北口前の駐車場か福沢諭吉旧居(記念館)で駐車するのがよい。
福沢諭吉旧居が近くにあるので序でに観光しよう。
中津駅北口から信号がある交差点を直進。
すると小さな川が見えて来るので川に沿って左折、50mくらい歩くと小さな交差点があるので右折。
石畳通り(寺町通り)を左折すれば、まもなく着く。
福沢諭吉旧居(記念館)からなら駐車場から左に出てしばらく歩くと石畳の道があるのでそこを左折して直進すればよい。
赤壁・合元寺の外観
こちらは寺町通りの様子。
一般的な城下町の通りといった感じ。
それでは合元寺をご覧下さい。
白と黒が基調の寺町通りだが、ここだけ異彩を放っている。
何故、合元寺の塀は赤いのか?
それは戦国時代に起きたある悲しい事件が大きく関わっている。
合元寺の悲話 黒田氏と宇都宮氏の戦い
1587年、豊臣秀吉による九州平定で功を認められた黒田官兵衛は豊前国(福岡と大分の一部)の6郡を与えられた。
同じく九州平定で活躍した佐々成政は拝領した肥後国(熊本)の統治に失敗し国人衆が反乱を起こしている。
これを鎮圧するため官兵衛は肥後国に援軍として向かったが、この隙を突いて宇都宮(城井)鎮房が豊前国の国人衆と反乱を起こした。
お願い地蔵と延命地蔵。
宇都宮鎮房は豊前国の大名で九州平定の際に豊臣秀吉に味方した。
しかし病気を理由に戦は息子に任せ本気を見せなかったため秀吉から訝しがられてしまう。
そのためか伊予国(愛媛)への転封と家宝の献上を要求されている。
鎌倉時代から先祖代々過ごしてきた宇都宮氏としては豊前国から離れたくないし、突然やってきた偉そうな秀吉に家宝を渡すわけにはいけないと思ったのだろう。
鎮房も秀吉も頑なに譲らず官兵衛と鎮房の関係が険悪に…。
宇都宮鎮房が反乱を起こすと留守を預かっていた黒田長政(官兵衛の息子)が討伐に向かった。
地の利を得る宇都宮軍はゲリラ戦法で長政を苦しめ撤退させているが、百戦錬磨の官兵衛が中津に戻ってくると戦況は一転した。
官兵衛は出城を築き宇都宮軍が守る城井谷城の補給線を切断し持久戦を狙っている。
黒田軍は周囲から徐々に戦力を崩して行き鎮房は止む無く13歳の娘、鶴姫を人質に差し出し降伏した。
黒田親子による合元寺の悲劇
結果から言うと宇都宮鎮房は黒田親子によって殺されている。というか一族殆ど殺された。
気の毒なことに13歳の鶴姫と一族十数名は、中津川に磔に処されている。
酒宴に誘われた宇都宮鎮房は家臣を合元寺で待機させ中津城へ向かった。
経過の詳細はわからないが酒宴の席で突然黒田家臣に囲まれ鎮房は家臣ともども謀殺されたと云う。
鎮房の家臣が待機していた合元寺にも黒田の兵が押し寄せ悉く討ち取られたため、寺の塀は血まみれになったと伝わる。
ちなみに争いの最中に出来た刀傷が現在も寺の大黒柱に残っている。
終わりに
それからというものの合元寺の壁をいくら塗り替えても…。赤く染まっていったそうな。
『なら、いっそのこと赤く塗ってしまおう!』と現在の姿になった。
残酷な物語ですけれど、死ぬか生きるかの戦国時代。
ちなみに宇都宮一族は鎮房の弟と妊娠していた朝房の妻が辛うじて逃げ落ち滅亡の危機は回避している。
多くの人間が亡くなった場所故に心霊スポットとして扱われてしまうのは止む負えないのかもしれない。
名軍師として崇められる黒田官兵衛とその息子の戦国武将としての姿が垣間見れる事件であった。
コメント
あら。中津へ行かれたのですね。
さっきまで観ていた、今週の、鶴瓶の家族に乾杯も中津でした。(金曜日に再放送あります)
黒田家と深いつながりのある中津。調べると奥が深いかもですね。
こんばんは上総さん。
奥が深いです!中津は史跡もあり景勝地(耶馬渓)もありかなりおすすめな観光スポットです。あと唐揚げがおいしいらしいです。まだ食べたことありませんけど…。