秩父の最奥部、群馬・長野との県境付近に位置する旧中津川村。
秩父市内から荒川沿いに車を走らせ滝沢ダム方面へ分岐し、中津川の峡谷沿いを進むとやがて寂れた鉱山風景が眼前にチラつき始める。
ここは秩父鉱山(或いは日窒鉱山)と呼ばれる知る人ぞ知る廃墟スポットである。
鉱山の歴史
秩父鉱山には働き場所を求め県内外から人々が集まり、最盛期の1960年(昭和35)頃には2000以上の人々が生活を営んでいたと云う。
山口美智子さんの『村とダム』は合角ダムに沈む集落の人々を丹念に取材した名著であるが、明治から昭和初期に生を受けた方々の言葉で『秩父の鉱山へ出稼ぎに行った(行く人がいた)』と語られている場面が見受けられた。
秩父の山奥は平地が少ないため稲の栽培が頗る難しく困窮する世帯が多かったようだ。
江戸時代から行われていた採掘
秩父鉱山の歴史は古く江戸時代初期に遡る。
1830年(文政13)に完成された新編武蔵風土記稿に鉱山に関する記述があるので引用しよう。
金山
居村ヨリ乾ニアタリ五六町許字榧久保屋勢尾根等數ヶ所ニアリ
初メ慶長年時ニ里正繁八ヵ先祖某命ヲ奉テ鑿チタルヨリ明和年中ニ平賀源内ト云ルモノ又命ヲ受テ鑿チシカソノ後文化年時ニ信州小縣秋葉村ノ某願ヒタテマツリ老里等ト議シテ鑿チタルヨシ今ハ廃シテ數十ヶ所ニソノ跡アリ
或ハ水ヌキ穴ヨリ水ノ涓々ト注キ出ルアリ
或ハ穴口崩レ又ハ岩石ナト轉ヒカゝリテ塞リタル所アリ
此アタリヲ鑿レハ綠青アリソノ深キニ至れは銅出ツト土人物語リセリ新編武蔵風土記稿 巻之二百六十五 秩父郡之二十 中津川村より
金山の他に銀鉛山が二ヶ所、鐵山の紹介もあったが、長くなるので割愛する。
明治、大正期にも断続的で小規模な採掘が行われていたらしいけれども、本格的な採掘が始まったのは近代化が進んだ昭和期に入ってからである。
繁栄した昭和期とその後
手狭な土地に社宅や寮などの住居が建ち並び、学校、病院、郵便局を備える鉱山の街として大いに栄えた集落は、時代が進むにつれ人口が減少していき衰退の一途を辿った。
取り壊されることなく残った建物はボロボロに朽ち果てながらも、かつての面影を少しだけ残している。
気軽に訪問出来る廃墟群として、一部の界隈では人気スポットとして知られている。
秩父鉱山は現在も稼働していて、主に結晶質石灰石の採掘が行われているそうだ。
廃墟群を眺めているくらいなら怒られないと思いますが、中に入ったら最悪捕まります。鉱山が稼働中ということもあって監視は厳しいです。
ニッチツ鉱山社宅群に心霊スポットの噂?
ここには幽霊出没の噂がある。
心霊スポットを扱うサイトでは『ニッチツ鉱山社宅群』という名称で紹介されていることが多い。
ニッチツとは秩父鉱山を運営している会社の名前であるが、社宅群に斯様な噂が流れる理由はわからない。
恐らくは廃墟群の頽廃的な薄気味悪さから生じたものであろう。
私は『廃墟=心霊スポット』と言っても決して大げさな表現ではないと思っている。
また、鉱山にも心霊スポットの噂は付きまとう。
これは落盤事故や病気などで亡くなった方が一定数いるためであろう。
秩父鉱山も例外ではなく、特に塵肺によって鉱夫が病死しているため粉塵に対する危機管理の問題は大騷動に発展した。
死や破壞を連想させるような場所はこういう噂が立ち易いのよね。
終わりに
社宅群へ向かう道中には慰霊碑や卒塔婆がひっそりと置かれていた。
写真は公開しないが、何とも物悲しい雰囲気が漂っている。
怖いもの見たさのためにこういう場所に訪れるのも一興かもしれない。
ただ『彼らの殉職が私たちの生活の基盤となっている』ことを忘れてはならないと思う。
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