千葉県富津市と安房郡鋸南町の境に位置する標高329.4mの鋸山遠望。
房州石の産地で、江戸時代中期頃から採掘が始まり1965年頃(昭和40)にピークを迎えた。
採石の歴史の幕引きは1985年(昭和60)。
現在は石切場跡や山中に鎮座する古刹・日本寺を目玉とした観光名所となっている。
私が紹介するという事は勿論心霊スポットの噂がある訳だが、今回は鋸山の風景写真の紹介が主となっていて、心霊云々については文末で軽くお話するだけにしようかと思っている。
鋸山へのアクセス
最寄り駅はJR内房線の浜金谷駅。千葉駅から電車で1時間20分程。
運行本数がかなり少ないので注意が必要だ。
近くに高速道路が通っているので、自動車でも問題ない。というか運転に抵抗が無ければ断然自動車での訪問をおすすめする。
登山目的でないのならばロープウェイの駐車場を目指すとよいだろう。
鋸山の風景
浜金谷駅に到着した頃まではロープウェイに乗って鋸山を満喫しようと考えていたが、改札を抜けてひと休みしている最中に『やはり登ろうか。』と考え直した。
何故、考え直したのかは思い出せないけれど、結果を見れば登山して正解だったと思う。
写真や動画で見るよりも自力で登った先に見る風景は明らかに格別であった。
登山道の所々に案内板があるのは嬉しい。
歴史のある採石場だけあって様々な遺物が出迎えてくれる。
これから紹介する石切場の風景は一生記憶に残り続ける程のインパクトがあるので、お時間のある方は是非頑張って登山していただきたい。写真では伝わらない迫力がある。
車力道
車力道と呼ばれる登山道から入山すると、写真のような石畳が何度もあらわれる。
鋸山の頂上付近で採掘された石材を木製の荷車に乗せブレーキを掛けながら麓へ運んだため、石の重みで轍が出来上がった。
この作業に従事する者を車力と呼んだ。これは女性の仕事だったらしい。
登りは空の荷車を背負い頂上まで運び、下りは約80kgの房州石を3本荷車に乗せて運ぶ重労働を日に3往復もしたと云うのだから驚きである。
切通し跡
石材を搬出するために切り抜かれた通路跡。
説明板によると、
石切り場から採石する際、良質な石材を求めて切り下る事に成り、石切り場周囲が岩壁に囲まれた状態になります、そのため、石材やズリ(石のくず)の搬出道を作る必要があり、これを『切り通し』と呼びます。
現地案内板より
との事。
切通しの壁面を見ると15~20cm位の間隔で波打つような横線があり、その間に細かく斜めに掘ったような跡がある。
これは人為的に掘られた跡だろう。
石切場跡(観音洞窟)
どう掘り進めたらこんな造形になるのだろうか?
写真だと伝わりにくくて残念であるが、見上げると足がすくみそうになるほど壮大な景色である。
この石切り場は岩壁に小さな観音様が彫られている事から『観音洞窟』と呼ばれている。
上から3枚目の写真、柱状の部分右上に観音様らしき摩崖仏がいらっしゃいますね。
石切場跡(岩舞台)
石舞台と呼ばれるこの石切場は江戸時代後期から有力な製材業者であった芳家石店(鈴木四郎右衛門家)が1985年(昭和60)まで採石を続けた縄張りであった。
よくよく観察してみると『安全第一 芳家石材K』の文字の辺り上部に比べて滑らかな断面になっていることに気づく。
機械化されたのは1958年(昭和33)だそうだから、この文字を刻むちょっと前に人力のツルハシからチェーンソーに切り替わったのだろう。
樋道跡
樋道は切り出した石材を滑らせて山腹まで下ろすために敷設された。
必ず石段とセットで併設され、この石段から作業員が石材の滑り落ちる速度を調節したり、また往来の通路としても使われた。
樋道で下ろせるところまで下ろして、上述した車力たちが麓まで房州石を運んだのだろう。
終わりに
最後に鋸山が心霊スポットと言われる理由について述べて終わろうかと思う。
鋸山は標高329.4mの低山だが、頂上付近は起伏の激しい険山なため滑落事故が稀に発生する。
過去の新聞を調べると遭難や滑落、そして遺体発見についての記事が数件見受けられた。
これらの他に2件、鋸山と心霊を結び付ける大きな事件を発見した。
1件目は1973年(昭和48)4月頃に起きたと云われる高校生の自殺。
確証となる新聞や雑誌の記事は発見出来なかったが概要を以下に述べる。
新聞社は怪訝に思いながらも差出人に電話を掛けるが…。
なんと差出人の高校生は既に鋸山の山頂(地獄覗き?)から飛び降りて死亡した後だった。
この後、久慈霊運という霊媒師を呼んで云々と続くのだけれど、そういう話はあまり好きでは無いので省く。
本当に起きた事件だったら間違いなく新聞記事になっているだろうから図書館に赴いてもっと真剣に過去の新聞を漁ってみようかと思う。
2件目は1957年(昭和32)7月19日の事件。
男は30歳ぐらい。身長は160cm程で左腕から肩にかけて登り龍の入れ墨が彫られていた。
女は26,7歳。小太りで150cm程。創価学会の経本と小銭を持っているだけで遺書はなく身元不明。
写真の観月台周辺には、1952年(昭和27)に開園された京浜急行グラウンドという広い公園があった。
訪問時は事件の事も京浜急行グラウンドの事も知らなかったので隈なく探索しなかったのだが、どうやら過去の名残も残っているようだ。
かなり昔の事件なので心霊の根拠として相応しいのか分からないが、当時の方々は相当な衝撃を受けただろうし気味悪がったに違いない。
この事件を切っ掛けに霊的な噂が立っても不思議ではないと思う。
両方とも古い事件だけど、とてもインパクトの強い事件だから皆の記憶に残ったと思います。事件の詳細は薄れて行き恐怖のイメージだけが残って心霊スポット的な扱いを受けるようなったのかもしれないね。
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