渋井町緑地碑の裏面に……。東茨城郡誌や水府異聞が伝える当地の歴史とは?

渋井町緑地

大洗鹿島線・東水戸駅から南西400m程の距離にある渋井町緑地。

公園に置かれている石碑の裏に当地の歴史が記されているので引用しよう。

この地は、幕末における藩内の争乱の際に、処刑された人々の遺骸が運ばれ、埋葬されたと言われている。
そのため、近在の人々は、この地を『土壇場』と呼び、新川の淀みを『冥加淀』と言い伝えている。(新川改修工事により当時の淀みは残っていない)
この緑地公園が地域の人々に愛着をもって、静かに憩える公園として末長く利用されることを願っている。

○○ ○○ ○書

平成四年三月吉日 水戸市 建之

渋井町緑地碑より一部引用

幕末期の水戸藩は天狗党(尊攘派)と諸生党(保守派)の対立が激しく血みどろの戦いを繰り広げられた。上洛を目指していた天狗党が越前国で降伏すると諸生党は藩内の天狗党に属する人々の粛清を行った。その後、戊辰戦争が発生すると今度は諸生党が追い詰められ天狗党の生き残りに粛清されている。

“幕末における藩内の争乱の際に、処刑された人々の遺骸が運ばれ、埋葬された”はこの時に処刑された人々のことを指しているのだろう。所属派閥の家族も粛清対象になったから、犠牲者は相当数に上ったと思われる。

渋井町緑地

また東茨城郡誌には以下のように記されている。

七 吉沼の地獄橋

上大野村吉沼にあり、徳川時代、罪人の死者、及無籍の死者を葬りし所にて、葬り方麁末なる故、時々露出し、犬の引ズリ出す等の事あり、傪狀甚だしく、見る者戰慄して、地獄橋と名づくるに至る。維新後別に橋の位置を變へ、澁井、吉沼間に架せしを以て境橋と稱するに至れり。

1927年(昭和2)発行『東茨城郡誌』下巻 1645頁より

緑地のすぐ近くに架かっている橋の石銘板に『境橋』と刻まれていた。

河川の改修工事によって流れが変わっているため架け替えられている可能性は高いが、地獄橋の系譜を継ぐ橋に違いない。

東茨城郡誌と渋井町緑地碑には死体置き場としか書かれていないけれど、1989年(平成1)に発行された水府異聞という書物には磔場があったと記載されている。

この地の歴史にくわしい元区長の○○さんは語り、愛車を巧みに運転、田んぼの中の曲がりくねった旧道“首なし通り”から、その昔は地獄橋といわれた新川にかかる境橋ほとりの埋葬地(約千坪)と磔場跡地(約五百坪)を案内してくれた。

(中略)

大正の末、上大野村尋常高等小学校に通っていた○○さんは、学校から帰ると、新川でフナ釣りをよくやった。面白いように釣れたのが冥加淀、そこでたまたまみたのである。

『処刑者を埋葬していた吉沼のこの地は土壇場とよばれていた。ちょうど冥加淀の水勢で浸食され、白骨化した遺体がでてきた。びっくりして父(○○=昭和二十四年没・72歳)にはなしたところそこは昔』と埋葬場の故事来歴を聞かされた。

水府異聞 水戸の牢屋敷跡と監獄の周辺(2) 213頁より

※個人名は伏せた。

戦中の食糧困難時にそれまで誰も手を付けなかった土壇場跡を開墾したことがあったそうだ。そこで収穫した作物を食べた者がみんな病気になったため、祟りと恐れて元に戻し木製の供養碑を建てたという話も残っている。

これらの情報は水府異聞の著者が現地で取材したものであり裏付けの史料が示されていないため真偽の程は定かではないが、口伝とはいえ当時の様子を知るであろう人物が残した貴重な情報であることに変わりはない。

 

終わりに

渋井町緑地

渋井町緑地碑が建立されたのは1992年(平成4)3月。

この頃、当地では東部浄化センター(下水処理施設)の建設反対運動が行われていた。

反対運動の最中に石碑が建てられたことに違和感を覚えて東部浄化センターが何処に建設される予定だったのか調べてみた。

いちのまる
いちのまる

用地と渋井町緑地が被っていたら、もしかして……?

東部浄化センターは国道6号と国道51号が交わるところの東側が建設予定地だったようだ。広さは約18.5ha(18万5000㎡)と記録が残っている。渋井町緑地からは直線距離で600m~1km離れているので、用地は全く被っていないことが分かった。

どうやら私の考えすぎだったらしい。

東部浄化センターは建設されず土地はしばらく放置されていたが、サッカー場と野球場を備えた大規模公園に整備されつつある。(2023年5月時点)

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