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豊薩合戦の戦死者が弔われた千人塚【大分】

大分県竹田市に千人塚と呼ばれる場所があります。

ここでは戦国時代後期、九州統一を目指す薩摩国の島津氏と没落の一途を辿る豊後国の大友氏が熾烈な争いを繰り広げました。この戦いを豊薩合戦と呼びます。

千人塚は数多の戦死者を弔うために作られた首塚です。

それでは、その歴史を見ていくことにしましょう。

 

千人塚について

千人塚

1584年(天正12)、島津氏は沖田畷の戦いで肥前国(佐賀)の龍造寺隆信を破ると筑後(福岡南部)に狙いを定めました。筑後を取られたらまずい大友氏も島津氏の動きに合わせて重臣の戸次道雪(立花道雪)と高橋紹運ら筑前(福岡北西部)の武将を筑後へ向かわせます。

最初は道雪や紹運の活躍で筑後の城を多く落として順調でした。

しかし1585年(天正13)、大友軍の要である道雪が柳川城攻めの陣中で病死すると士気がガクッと落ちてしまい筑前まで撤退。島津氏はこのチャンスを逃してなるものかと筑前へ軍を進めます。大友宗麟は自家だけでは島津氏にかなわないと悟り豊臣秀吉に助けを求めました。

豊臣秀吉は両家に停戦するよう政治介入しましたが、島津氏の当主・義久はこれを拒否。1586年(天正14)、島津軍は筑前の高橋紹運が守る岩屋城や宝満城を奪取。岩屋城の戦いでは奮闘する高橋紹運に島津軍は相当苦しめられ予想以上の被害を出してしまいました。紹運こそ討ち取りましたが立花宗茂(紹運の息子、道雪の義理の息子)が守る立花山城で足止めを食らいます。

そのころ猛将・島津義弘率いる3万の兵が肥後路経由で豊後国へ侵攻。

このときに義弘の狙った城が今回訪れた千人塚の近くにある岡城です。岡城は豊臣秀吉の援軍が来るまで耐えきった難攻不落の城として有名ですが、その支城は小規模で籠城兵も少なかったため島津勢の降伏勧告に従うか蹂躙されるかのどちらかでした。いくつかの城では降伏に従い、またいくつかの城では徹底抗戦して散っていきました。

千人塚はそんな岡城攻防戦での戦死者を埋葬し弔った場所とされています。

 

終わりに

結果は豊臣秀吉の本格的な援軍が来る1587年(天正15)まで耐えきった大友氏の辛勝といったところでしょうか。

大局はこんな感じですが細かく見てみると様々な物語があって面白い。ゲリラ戦で島津軍を翻弄し仇敵と戦った佐伯氏の話とか、洞穴に籠った百姓に勝てなかった島津軍とか、事前に援軍としてやってきた仙石権兵衛がへまこいた話などなど。

豊後の大友宗麟も臼杵城で大砲を撃ちまくって活躍したとのことです。

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