
高崎山といえば野生の猿を餌付けしている高崎山自然動物園が有名です。あと水族館の『うみたまご』も人気スポットだね。
山麓の動物園と水族館は大分県の観光スポットとして県内外からたくさんの観光客が訪れるわけですが、高崎山のてっぺんには何があると思いますか?
ということで気になったので登ってきました。それでは高崎山の頂上の様子を見ていきましょう。
高崎山頂上へのアクセス
高崎山頂上へは別府市側と大分市側からアプローチできます。私は大分市側から上り別府市側へ下りたのですが、行きも帰りも別府市側からをおすすめします。
大分市側からはすれ違いが出来ないような狭い道をひたすら進んで行くので運転がしんどいです。
細かい道のりは言葉で説明しにくいので↓のグーグルマップを参照にしてください。
高崎山頂上付近の駐車場
頂上の手前に広い駐車場(仮設トイレ付)があるので、車を停めてここから登山します。30分くらい登ると頂上にたどり着きます。意外と長い道のりになるので十分な飲み物を持っていきましょう。
いざ!高崎山頂上へ。
高崎山城跡について
道中はこんな感じ。
『高崎山のてっぺんには何がある?』の答えは『城跡がある』です。
なので頂上までの道のりに様々な遺構が見られます。例えば↓
堅堀跡。合計15本の畝状竪堀が発掘されています。
竪堀は山の斜面に伸ばした堀で敵の横の動きを抑制する防御施設です。
正面入り口。ここを抜かれたら落城間近なので立派な門や櫓台が設置してあったそうです。
おそらく土塁や石塁跡だと思います。
頂上付近の堀切跡。堀切は尾根を分断して敵の侵攻を妨げる目的で設置されます。
高崎山城の歴史
本丸跡。
奈良時代に作成された『日本書紀』には、高崎山の山頂に烽火台があったと記されています。
また、鎌倉時代の初めに、大友氏が豊後国の守護職となり大友勢が入ってきたとき、阿南惟家はここにこもって抗戦したとも伝えられています。
現地案内板より
大昔から軍事拠点として重要な場所だったことがわかります。
豊後大友氏8代当主の大友氏時が高崎山に城を築いたと伝わります。時代は南北朝時代です。
氏時の兄・氏泰の代に足利尊氏が新田義貞ら官軍に追い詰められ九州に落ち延びてきました。その際、大友氏は尊氏を庇護したことから氏時は猶子(他人と親子関係を結ぶこと)となり『氏』の字を与えられたといわれています。
源氏の足利尊氏の子供になったので源氏を名乗れるようになったということですね。

大友氏の初代・能直が源頼朝の落胤だったという説もあるようです。それが本当ならもともと源氏だけど……。これは眉唾物だからな。
南北朝時代の大友氏は北朝側(足利尊氏が支えた光明天皇)に味方し南朝方(後醍醐天皇)の菊池氏などと戦っています。
北朝側はここを拠点にして府内に構えた菊池氏と激しい合戦を何度も繰り返し行っていたようです。
頂上にあった『古城播磨守大友著景之墓』。
永享年間菊池の乱の時父大友播磨守著景讒によって割腹。その時母と共に上洛した円信は蓮如の弟子となった。
全日本仏教会寺院名鑑刊行会 全国寺院名鑑より
おそらくこの文章は↓を参考にしていると思われます。
最要記云、文明二年秋七月十八日、豐府主親隆(十四代出羽守)在府城信妄臣(ママ)之讒言、使親屬古城播磨守著景自殺、著景妻懐妊也、著景雖有長
1976年(昭和51)発行 歴史図書社 豊後史蹟考 豊後全史より
豊府最要記という古書があるみたいですが、詳細はわかりません。
14代当主の大友親隆が佞臣を信じて親族の大友著景(あきかげ)が自殺させたという内容。このあと著景の息子が僧侶となり光西寺の開祖になったという話が続きます。ちなみに光西寺は現存しています。

お墓があるということは高崎山城に関わりの深い人物だったのでしょう。
18・19代当主の大友親治・義長の代に朽網親満が高崎山城に籠り反乱を起こしますが、これはすぐに鎮圧されました。朽網親満は大友氏の家督相続に文句があったようです。
22代の大友義統は豊薩合戦での戸次川の戦いで島津軍に大敗し高崎山城に逃げ込んだといわれています。そして大友氏が滅亡した後、高崎山城は廃城となりました。石材などの廃材は新しく築城された府内城で再利用されたといいます。
江戸時代には外国船を見張るための狼煙台が設置されました。
第二次世界大戦には高射砲台が設置されたと伝わっています。
※現地案内板に『第二次世界大戦の高射砲台跡?』とあったので実際にあったのかは不明。
上の写真は狼煙台の跡だと思われます。
終わりに
高崎山城から眺める大分市方面。
木がなければもっと広範囲を見渡せる感じです。
ただ山を登るだけになるかと思っていましたが、まさか城跡があるとは。
なかなか楽しい歴史旅となりました。
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