池の薬師堂水牢跡とは

群馬県吾妻郡東吾妻町に、真田氏の暗い歴史の面影を今に伝える「池の薬師堂水牢跡」という場所があります。ここは東吾妻町の文化財にも指定されている歴史的なスポットです。今
回は、現地の案内板の記述や歴史的背景をもとに、この水牢跡にまつわる真実へと迫ります。
池の薬師堂水牢跡とはどのような場所なのでしょうか。
薬師堂の山端の軟石を掘った古池跡が、真田伊賀守による苛政を物語る「水牢」の跡と伝えられている。水牢とは、6間(約10.8m)四方を掘り下げ深さ2尺(60cm)ほど水をため、周囲に塀をめぐらし木戸を立てた牢屋。
当時の沼田藩主の重税は苛烈を極め旧暦12月の年貢上納に際して、刑罰として年貢未納の農家の妻子を4,5人づつ縄で縛って水牢に投獄し、寒中の水の中に立たせたと伝えられている。
投獄された家の者は、見るに堪えず一族から金子(きんす)を集め、またある者は田畑を処分して年貢を済ませ妻子を救い出したとつたえられる(原文ママ)。
この水牢は天和元年(1681)8月11日山崩れによって埋没したが、その一部は現在まで歴史の証言者としてその姿を今につたえています
(現地案内板 池の薬師水牢の跡より引用)
寒中の冬に冷たい水の中へ妻子を立たせるという、極めて苛烈で非人道的な刑罰が行われていたことが分かります。
水牢が作られた歴史的背景と真田信利の苛政
なぜこのような恐ろしい水牢が作られることになったのでしょうか。
沼田藩主であった真田信利は、非常に苛烈な政治を行ったことで知られています。この背景には、真田家における複雑なお家騒動がありました。
真田氏は信濃国(現・長野県)松代と上野国(現・群馬県)沼田に領地を持っていましたが、松代が本領であり、沼田は分領的な扱いでした。真田信利は家督継承順位が高かったため、松代を任せられる可能性もありましたが、後継者争いに敗れてしまいます。このときに幕府から沼田の独立を認められ、松代から分離することになりました。こうして信利は沼田藩の藩主となったのです。
藩主となった信利は沼田領の検地を行いました。実高三万石の所領であったにもかかわらず、約十四万石として幕府に申告したのです。この根拠のない暴走は、松代藩の当主になれなかったことが関係しているといわれています。石高によって年貢の多寡が決まるため、沼田領の民衆たちは重い税を課され、非常に困窮することになりました。

無理やり年貢を納めさせるために水牢を使ったということですね。
こうした悪政の末路はどうなったのでしょうか。
悪政の末路と沼田藩の改易
暴政を重ねた真田信利ですが、それも長くは続きませんでした。
1680年(延宝8)に、沼田藩は幕府から江戸の両国橋改修工事に必要な材料調達を請け負いましたが、納入期日に間に合わせることができませんでした。さらに、過酷な重税に耐えかねた沼田領の住民・杉木茂左衛門が、命を賭して幕府へ直訴を行ったことで、信利の悪政が明るみに出ることとなったのです。
これらの失態が原因となり、1681年(天和元)に真田信利は改易処分(領地没収)となりました。信利は山形藩の奥平家にお預けの身となり、その後、奥平家が下野国宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)へ転封されるとともに移り、同地でその生涯を閉じることとなりました。
終わりに:水牢にまつわる伝説
吾妻郡の東部には「池の薬師堂水牢跡」以外にも、いくつかの水牢跡が残っているといいます。
書籍『上州の史話と伝説(1974年発行)』には、過酷な刑罰によって命を落とした人々の念が引き起こしたとされる、恐ろしい伝承が記録されています。
地蔵尊の祟り
年貢を納められずに水牢へ入れられ、亡くなってしまった久兵衛という男性がいました。村人たちは彼を哀れみ、供養のために石地蔵を建立しました。しかし、この地蔵尊は何度向きを変えても、苛烈な刑罰を主導した役人・半兵衛の屋敷の方角を向き続けたといいます。その後、半兵衛は恐ろしい祟りによって命を落としたと伝えられています。
水牢に引き込まれる牛
桃瀬地区にあった水牢跡にも似たような伝説が残されています。未納者の怨念が宿ると恐れられていたその場所では、現代になっても農家の牛が不自然に水牢の跡地へと引き込まれて命を落とす事故が起き、「昔の水牢で亡くなった人々の霊が祟っているのではないか」と村人たちに噂されました。
病をもたらす休息石
ある場所には、1メートル四方ほどの石が残されていました。この石はかつて水牢の中に置かれていたもので、牢に入れられた者が身体を休めるために使用していたといいます。現在では「この石の上に登ると必ず重い病気にかかる」と噂され、誰一人として近づく者がいないといわれています。

かつての過酷な為政者の面影が、こうした伝承として今も地域に語り継がれているのです。



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