大分県竹田市にある鏡処刑場跡は江戸時代に岡藩がキリシタンや罪人を処した場所である。
全国各地に点在する刑場跡は、当然の如く心霊スポットの噂が流れているが、事情が事情だけに曰く付きの話があるのもやむを得ないことだと思っている。
それでは、刑場跡の風景とその歴史を紹介しよう。
鏡処刑場の歴史
鏡処刑場がいつ頃設置されたかは不明だが、江戸時代にキリシタンや罪人が処刑された記録が残っている。
三代藩主から八代藩主の間にここで処刑されたキリシタンは44名(後年ではキリシタン以外の一般の罪人もここで処刑)にのぼり、その中には女、こどもも含まれる(北村清士著 大分県の切支丹史料より)。キリシタン信者の数に比較すると、その割合は低く、臼杵などの他藩に比較しても一桁少ない。
竹田キリシタン研究所・資料室のHPに詳しく解説されているので、気になる方は一読していただきたい。
↑の情報を読めばこの記事は読まなくてもよいかもしれません。
キリシタンの弾圧が他より少なかった岡藩
凄まじいキリシタン弾圧が行われていた九州地方の中で比較的岡藩の弾圧は穏やかだった。
理由は初代藩主の中川秀成の父である清秀がキリスト教と深い繋がりがあったためだと云われている。
清秀の従兄弟はキリシタン大名で有名な高山右近、妹は古田織部の正室であった。
そういうわけで中川氏はキリシタンに寛容だったとされる。
禁教令が発令されたため幕府に恭順の意を示す目的で、止むを得ず少数の信者を処刑したと考えられている。
中には想像を絶する弾圧を加えた大名もいたけれども、罪の無い人を処刑するのに抵抗を覚えた大名もいたのだろう。
ましてや親族に関係者がいたのであれば、その傾向は顕著になるはずだ。
終わりに
竹田市にはユダヤ人の王ナザレのイエス(INRI)の石碑やサンチャゴの鐘などキリシタンに関する謎が多く残っている。
これらの史跡を勉強すれば岡藩とキリスト教の関係がよく見えてくるかもしれない。
九州地方にはキリシタン弾圧に関する心霊スポットが多数あるため、これからも調査を進めていきたいと思う。
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