瀧廉太郎は学童時代に過ごした大分県竹田市の城下町や岡城跡での思い出を懐かしみ歌曲・荒城の月を作曲しました。
彼にとって竹田市は心のふるさとだったようで、荒城の月には『楽しかったあの頃はもう戻ってこない。』という物悲しさが曲調に込められています。
それでは、若くして亡くなってしまった日本を代表する名作曲家の生涯を振り返ってみましょう。
瀧廉太郎記念館へのアクセス
大分県道8号線沿いにある竹田市立歴史資料館の駐車場に停めて徒歩で行きます。
資料館に案内板があるので迷うことはないと思います。
詳細は↓のgoogle mapで。
瀧廉太郎、誕生
瀧廉太郎は1879年(明治12)に東京都芝区南佐久間町で生まれました。
瀧家は江戸時代に豊後日出藩の家老職を務め、明治に入ると父の吉弘は新政府の内務省や書記官、大分県大分郡長に任命されています。
そのため一家は様々な地を転々とすることになります。
廉太郎、12歳の冬に大分県竹田市に引越し、その際の居住地が瀧廉太郎記念館となっています。
音楽を志す
転校ばかりだったためなかなか友人が出来ない廉太郎でしたが、竹田市では多くの友達を得ることができ充実した毎日を過ごしました。
この頃から音楽に惹かれ始め、その道に進む決意をしました。幸いにも父・吉弘は廉太郎の夢を認め惜しまず支援してくれました。
音楽大学に入学、初めての楽曲
14歳で竹田市の小学校高等科を卒業し上京すると最年少(15歳)で現東京藝術大学音楽部に入学を認められ、作曲とピアノを習い才能を開花させていきます。
17歳の時に最初の楽曲『日本男児』を発表します。
この時期に脚気を患い竹田市に戻り恩師や旧友と再会、そして子供の頃に遊んだ竹田市の城下町や荒城の月のモチーフとなる岡城跡を散策します。
政府からドイツ留学のすすめ
療養後に東京藝術大学専修部を首席卒業し研究科へ進学します。
20歳の時に文部省からドイツ留学の命を受けますが、廉太郎は出発延期願いを提出します。
理由は日本の西欧化批判により東京藝術大学の存続が危ぶまれていたからです。
そのため何とか成果を出し大学を存続させなければならないと廉太郎は考えました。
そんな状況のなか『組歌四季 花』や日本人初のピアノ独奏曲『メヌエット』を作曲しました。
ドイツへ留学
1901年(明治34)21歳の時、文部省編纂中学唱歌(荒城の月、箱根八里、豊太閤)を発表、その年にドイツへ渡航しライプツィヒ王立音楽院に受験し合格します。
そこでピアノや対位法(複数の旋律に独自性を持たせて調和させる技法)を学びます。
同年の11月25日にオペラ鑑賞し直後体調を崩し、12月に入院し肺結核と診断されます。
廉太郎の死
1902年7月に帰国命令出され、ロンドン郊外で停泊中に荒城の月の作詞者・土井晩翠と出会っています。
帰国してから病状は一進一退でしたが、その間も作曲を続けました。
しかし1903年6月29日、病状が悪化し亡くなります。
瀧廉太郎最後の曲は『憾(うらみ)』と命名されたピアノ独奏曲です。
曲調は8分の6拍子で全体的に悲壮感で満たされています。
途中短調から長調へ転調して過去を回想するかのように静かに明るくなりますが、ふと我に返って短調へ戻ります。
最終部はオクターブ音階の連打で焦燥感や絶望を表現し、最後は低音の主音で終わります。
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