港区

東京都

日蓮宗寺院・覚林寺と加藤清正の関係について【東京】

覚林寺は可観院日延(かかんいんにちえん)が1631年(寛永8)に開いた日蓮宗寺院で、清正公(せいしょうこう)とも呼ばれています。豊臣秀吉の子飼いの家臣として頭角を現し、後に初代熊本藩主となった加藤清正に関係する寺院です。
東京都

乃木希典が祀られる乃木神社へ!彼は本当に愚将だったのか?【東京】

明治時代に活躍した将軍・乃木希典は愚将、凡将と評されることが多いです。私もこの時代に興味を持ち小説や映画を見始めた頃は『このおっさん、兵に突撃ばかりさせて酷い指揮官だな……』なんて思っていました。しかし色々と調べていくうちに一概に無能と評価されているわけではないということを知り、乃木さんに対する見方が変わっていきました。
東京都

麻布山善福寺と逆さイチョウ!なぜ心霊スポットの噂が?【東京】

さて、当ブログで紹介している場所は情報の多寡はあれど全てに心霊スポットの噂がある。心霊スポットを扱う他のサイトを拝見すると『戦国時代に討ち取った敵の手首をイチョウの近くに置いて手柄を報告した。それ故に"血吸いイチョウ"と呼ばれている。』と記されていた。
東京都

六本木ヒルズになぜ心霊スポットの噂が?!【東京】

六本木ヒルズが建設される以前には、大正年間に指定された『乃木大将誕生地』、昭和初期に指定された『毛利甲斐守邸跡』の旧跡が存在した。また、冒頭で紹介した赤穂浪士10名の切腹に纏わる碑石もあったそうだ。
東京都

三田の幽霊坂へ!3本足のお化けが出る?【東京】

1921年(大正10)7月26日の読売新聞朝刊に幽霊坂に纏わる興味深い事件を発見した。著作権があるので、そのままの引用は出来かねるが、要約して紹介しようかと思う。表題は"幽靈坂の三本足お化"。東京都には7~8の幽霊坂があるそうなので、時間を見つけて散策してみようかと思っている。
東京都

江戸無血開城!歴史的会談が行われた場所【東京】

幕末期。戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は明治政府軍に敗北します。大阪城からこっそりと脱出した15代将軍・徳川慶喜は江戸城で自らの進退を煩悶する日々を送りました。明治政府軍は徳川慶喜追討令を発し、東征軍を派遣。そして、敵の圧力に止む終えず恭順の意を示す慶喜公。
東京都

麻布の仙台坂が幽霊坂と呼ばれる理由【東京】

東京都港区麻布の仙台坂。古川に架かる二之橋から仙台坂を登ると中腹左手に韓国大使館が見え、有栖川宮記念公園へと至る。坂の北側には福沢諭吉の墓や逆さイチョウで知られる善福寺がある。ネットの情報を眺めていると仙台坂には"幽霊坂"の別称もあるようだが、その根拠は記されていない。
東京都

青山霊園は史跡だと思う。近代日本の礎を築いた偉人達の墓を巡る

私にとって墓地系心霊スポットは特筆すべき事が少ない。本当に霊が存在するのであれば、墓地以上に霊が出る場所はないだろう。心霊を主軸として紹介するのであれば、如何様にも話を盛り上げられると思うが、そうでない私はいまいち筆が進まない。と言ったものの、青山霊園は少々事情が異なる。
東京都

伊能忠敬の西国測量の基点、高輪大木戸跡へ【東京】

港区高輪にある江戸時代の史跡・高輪大木戸跡へ行ってきました。大木戸とは簡易関所のことで、高輪大木戸では東海道の両側に石垣を設け、江戸の南玄関口として人々の出入りを監視していました。また人が多く集まる場所だったので高札場としても活用されていました。
東京都

泉岳寺の『首洗井戸、血染の石、血染の梅』の曰くについて【東京】

首洗井戸、血染の石、血染の梅を心霊スポットの根拠とするならば、浅野内匠頭と吉良上野介の霊が出没するのだろうか?もしそうであるならばこれは大事である!自分を間接的に殺めた人間とその配下に首を取られた人間の霊が同箇所に出るとすれば、争いは避けられない。
東京都

白金トンネルはなんで有名な心霊スポットになってしまったのか【東京】

今回は白金トンネル。いわゆる『化けトン(お化けトンネル』ってやつですね。 東京にはいくつかの『化けトン』があって各々有名な心霊スポットになっています。高級住宅街で有名な白金にあるトンネルが何故、行ってはいけない心霊スポット認定とされているのか?さてそれでは参ります!
東京都

増上寺の歴史と徳川将軍家墓所の謎【東京】

芝大門にある増上寺は小田原征伐後に関東へ入部した徳川家康が菩提寺と定めた浄土宗の寺院です。境内に徳川将軍家墓所があるのですが、何故か15代将軍全員のお墓はありません。ということで今回は増上寺の歴史と菩提寺なのに将軍全員の墓がない理由について見ていくことにしましょう。
東京都

勝率.962の怪物!最強力士・雷電為右衛門の墓【東京】

雷電為右衛門は勝率.962の現在まで語り継がれる相撲取りです。身長6尺5寸(約197㎝)、体重45貫(約169㎏)という現代でも通用するレベルの巨漢であったと云われています。また筆まめで教養のある人物だったことでも知られており、自身の成績や巡業について書いた諸国相撲控帳や松江藩相撲頭取になってからの仕事内容を記載した萬御用覚帳などが残されています。