
薩摩島津氏の初代は平安時代後期から鎌倉時代にかけて活躍した惟宗忠久という人物です。忠久は源頼朝から南九州の島津荘の下司職に任じられます。その土地の名前から代々島津氏を名乗るようになりました。
『中世島津氏研究の最前線』によると鎌倉期の島津本宗家は鹿児島県出水市の木牟礼城を拠点にしたと書かれています。5代目当主・貞久が南下し碇山城を築きました。そして、本宗家を継いだ奥州島津氏は東福寺城、大姶良城、志布志城内城と居城を変遷させています。
その後、鹿児島市の清水城に移り、戦国時代には15代目当主・貴久が現在大龍小学校がある場所に内城を築き居城とします。そして江戸時代、18代目当主の忠恒が鹿児島城を築き明治時代に入るまで島津氏はそこを拠点としました。
鹿児島城の歴史
鹿児島(鶴丸)城跡 案内板より
明治維新150周年記念『鹿児島(鶴丸)城跡現地説明会』の資料によると島津忠恒(家久)が1601年ごろに築城を開始し、1615年ごろにほぼ完成したとあります。
江戸時代後期に編纂された三国名勝図会に鹿児島城および城山について書かれています。
鹿兒島ノ城
鹿兒島坂本村にあり、卽府治なり、山に據て城とす、其山は鶴丸山という、此山の形、舞鶴に似たり、故に名を得たりとぞ、山上林木多し、遙かに山を望めは、佳氣浮動して、欝々蒼々たり、舊名を上之山と號す、故に亦上之山城ともいへり、
三国名勝図会 巻之一より

1601年に着工ということは関ヶ原の戦いが終わってすぐ造り始めたということですね。
島津氏と関ヶ原の戦いと言えば島津の退き口が有名です。
慶長五年庚子七月十九日ニ伏見城矢合在之一戰ニ罷成候前方川上久右衛門ヲ以伏見ニ義弘籠城ナサルヘキ由被仰候ヘトモ鳥居彦右衛門殿無合點ニ付其儀ナク候事
史籍集覧 島津家代々軍記より
1600年の関ヶ原の戦いで島津義弘は東軍(徳川方)に味方するつもりで京都の伏見城に援軍として向かいましたが、伏見城の鳥居元忠は援軍の話を聞いていなかったため入場の許可はできないと追い払ってしまいます。
結果、島津勢はやむを得ず西軍に組しました。

鳥居元忠はこれを敵の謀略だと考えたのでしょうか?
ちなみにこの話は後世の創作の可能性があります。
その後、島津義弘は関ヶ原の戦いに参戦したものの積極的に戦わず敵陣中を突破して鹿児島に帰還したといいます。この退却戦があまりに壮絶で奇跡的だったため『島津の退き口』として現在まで語り継がれています。

さて、徳川家康に反抗する形になってしまった島津氏。
島津氏は徳川勢が鹿児島に攻め寄せると予想し早くから臨戦態勢を取っています。家康も当初は島津討伐を考え、九州の大名に攻撃命令を出しています。しかし互いに無駄な戦はしたくありません。
島津義弘の謝罪、島津義久の交渉が功を奏し、本領安堵に落ち着いています。

西軍に味方した大名たちが軒並み減封や所領没収の憂き目にあっているのにもかかわらず、島津氏は本領安堵です。もともと徳川方の味方をするつもりがやむを得ず敵対してしまったことや島津の退き口での薩摩兵の戦いぶりを聞いたことが理由でしょうか。

『あいつら遠いところにいるし、やけに強いから敵にまわしたら絶対面倒くさいな……』みたいな感じかな。
この交渉時に鹿児島城の着工を始めているので当初は対徳川を想定して築城されていたのだと考えられています。

『戦いに巻き込まれることなく役目を終えた鹿児島城』と言いたいところですが、そんなことはありませんでした。
1863年(文久3)、生麦事件がきっかけで起きた薩英戦争で本丸大奥二階や御楼門が被弾
1877年(明治10)、西南戦争の最終局面で官軍の攻撃により二之丸が炎上
1901年(明治34)、城址に第七高等学校造士館が設立されるが太平洋戦争で空襲の被害にあい全焼
鹿児島城へのアクセス

自家用車で行くなら黎明館駐車場が便利です。鹿児島城の南西にある照国神社の大鳥居をくぐった先を右折したところにあります。
鹿児島駅から徒歩で20分程の距離にありますので、市内散策しながら向かうのもよいかもしれません。ちなみに私はホテルの駐車場に車を停めてレンタル自転車を借り鹿児島市内を観光しました。
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終わりに
鹿児島(鶴丸)城跡 案内板より
現在、鹿児島城本丸跡には歴史資料館の黎明館、二の丸跡には図書館や美術館などの施設が建っています。
上の画像は鹿児島城の御楼門再現図です。鹿児島の新しいシンボルとして再現されようとしています。

2020年(令和2)に御楼門が完成しました!いつか見に行きたいな。
おしまい!





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