心霊スポットと噂される天神中央公園の福岡藩刑場跡について

福岡藩刑場跡

福岡の天神にある天神中央公園。

九州の中心部に位置していることから多くの人々が往来する賑やかな公園だが、どういう訳か心霊スポットとして知られている。

いちのまる
いちのまる

写真を見たらわかりますね!
むかし、ここには処刑場があったみたいなんです。

さて、どのような歴史のある場所なのか?

ざっくりと調べたので紹介しよう。

 

福岡藩刑場跡の場所

福岡藩刑場跡

天神中央公園は福岡県の中心地にあるため、人だけでなく自動車の行き来も激しい。

都心の運転に慣れていない方は電車での訪問をおすすめする。最寄り駅は地下鉄・天神南駅。

自動車で向かうなら公園に付属している市営の天神中央公園駐車場(有料)を利用しよう。

休日やイベント開催日は混雑が予想されるので、注意が必要だ。

 

天神中央公園の歴史

福岡藩刑場跡

結論から言うと天神中央公園が藩の刑場跡だった可能性は低い。

江戸時代後期(1800年代)の古地図を確認したところ、付近には武家屋敷が建ち並び、他には肥前堀や数間門の存在が認められる。気になるのは、公園から北に400m程離れた寺院の近くに牢屋と記された区画である。

町の北側に牢屋があり、牢屋町とも呼ばれた。牢屋はのち枡小屋町に移り、跡地は武家屋敷となる。牢屋の隣にある勝立寺は、僧日忠が宗論の末、キリスト教に勝ったので、長政がこれを賞して開かせたという。

1983年(昭和58)発行 福岡町名散歩 114頁 橋口町より

公園の近くに牢屋があったことは間違いなさそうだが、後述する空誉上人の処刑以外に刑が執行されたと記された書物を見つけられなかった。

福岡藩刑場跡

天神中央公園に刑場跡の石碑が置かれている理由は現地の案内板にあった。

写真は市営天神中央公園駐車場の3番出口。

かつてこの辺りには知事公舎があり、その敷地内に江戸時代の僧侶・空誉上人を祀る祠があったそうだ。

しかし地下駐車場を設置する際に祠を撤去せざるを得なくなった。

無かったことにするのは問題あるだろうと考えたのか、空誉上人の祠があったことを示すための石碑に安置した。

上人は兵庫県明石市の出身で、福岡城主黒田公が帰依した名僧であった。関ヶ原の戦いの後、黒田公が福岡に国入りした時に同行し、橋口町に地福寺を開いた。

その後、黒田公の重臣、後藤又兵衛基次が黒田家を出奔したとき、黒田公は基次を召還して殺害しようと、甘言をもって帰国を勧めたが、基次は帰らなかった。

このとき、基次が帰ってこないのは空誉上人が内通したためであると話す者があり、この話を信じた黒田公は、慶長16年(1611年)8月6日、捕吏を地福寺に送り上人を逮捕、即日、須崎の浜で処刑し、遺体はその場に放置した。

空誉上人の門弟であった浄念寺の住職、舜道上人は、遺体の貰い下げを再三懇願したが、認められなかった。そこで8月10日の夜、月が沈むのを待って、弟子の舜沢とともに須崎の浜伝いに忍んで行き(当時、浄念寺は海に面していました。)、遺体を背負って帰り、浄念寺の境内に土葬した。

因みに、口碑(言い伝え)により空誉上人が処刑された場所と伝えられていたのは明治期の県庁裏手の葦沼の中で、その葦沼は明治43年に九州沖縄八県連合共進会会場として埋め立てられ、後に知事公舎の敷地となった。

昭和2年、知事公舎で数度、霊夢を感じた者があったので、祠を建立し、祭典を行った。

現地案内板より

つまり福岡藩刑場跡では無く空誉上人が処刑されたと言い伝えの残る場所なのである。

いちのまる
いちのまる

なんで、福岡藩刑場跡なんて名称にしたんだろ?

空誉上人供養碑とか他にいくらでも言いようがあるだろうに。

 

福岡藩の刑場

福岡藩刑場跡

引用文中にある空誉上人が処刑されたとされるもう一つの場所、須崎の浜についての詳細は不明である。

写真の電柱に書かれた『冷泉津の須崎浜周辺に』がヒントになるかもしれない。

冷泉津は博多湾のこと。現在の須崎町や冷泉町の北側は海だった。

刑場の厳密な場所は判明しないが、海岸沿い、若しくは河口、川岸にあったのだと思われる。

 

福岡藩刑場跡

福岡城付近には他の刑場跡もある。

処刑場が置かれていた大浜と竪町浜は同一場所で、江戸時代から明治初期までの地名・竪町浜が、明治8年に大浜1~4となり、現在では博多区大博町となっている。

江戸時代の刑罰施設 竪町浜の刑場より引用(リンク切れ)

かつて刑場があったとされる大博町に向かった。

 

福岡藩刑場跡

吉田家伝録という古書に上立町浜という地名がある。

内容は『正徳4年(1714年)に重罪人が上立町浜で斬首、比恵ノ川原に首が晒された。』というもの。

竪町浜(近世)

江戸期~明治8年の町名 江戸期は博多の1町

御笠川河口左岸に位置するはじめ新町流、幕末期からは浜新町流のうち西の浜口ノ浜(浜口町浜)から東の柳町に続く横筋町(三奈木黒田家所蔵福博古図)元禄年間は立町浜と見え…

(中略)

また藩の刑場が設けられ、天保12年には筑前では最初の腑分けが百武万里・武谷元立などによって行われた。

角川日本地名大辞典(旧地名編) 竪町浜(近世)より

福岡藩刑場跡

竪町浜という地名は残っていないが、大浜は残っている。

訪れたところ現地にはマンションや住宅が建っていた。

昔、刑場があったなんて思えない風景である。

刑場

笞狀處决場 福岡札之辻

絞斬 獄所抱内

梟首犯由牌場 比惠川原

熾仁親王日記 四七八頁より

比恵ノ川原の晒し首に関しては『熾仁親王日記』の明治四年十月に記述が残る。

博多駅の東にある比恵町のことであろう。

 

終わりに

福岡藩刑場跡

天神中央公園が心霊スポットと噂される所以について調べていたら、少し脱線して福岡藩の刑場跡について紹介する記事になってしまった。

結論は『天神中央公園の福岡藩刑場跡の碑は空誉上人の祠跡を示すものだった。ただ、ここで空誉上人が処刑された可能性は低い!となると本当にここは心霊スポットなのか?』である。

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