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天空の城・竹田城の歴史と悲運の城主について【兵庫】

竹田城

兵庫県朝来市にある竹田城は、標高約350mの古城山山頂に築かれた山城です。

山全体が虎が伏せているように見えることから、別名「虎臥城(とらふすじょう)」とも呼ばれています。

今回は、雲海の絶景で有名な竹田城の歩んできた歴史と、最後の城主にまつわる数奇な運命について歴史検証をしてまいります。

 

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竹田城の始まりと山名氏の時代

竹田城

竹田城の築城時期については詳しい記録が乏しく、伝承の域を出ない部分が多くあります。

現地の案内板や伝承によると、室町時代の嘉吉年間(1441年~1444年)頃に、但馬国の守護であった山名持豊(宗全)が、有力家臣である太田垣氏に命じて築かせたのが始まりとされています。

江戸時代後期の記録『和田上道氏日記』では、この時期に「安井ノ城」という城が築かれたとあり、これが太田垣氏の竹田城を指していると考えられています。

太田垣氏は「山名四天王」の一角として力を蓄え、織田信長が台頭する戦国時代まで長らく竹田城を拠点として支配を続けました。

 

豊臣(羽柴)秀吉の但馬侵攻と弟・秀長の入城

竹田城

戦国時代後期になると、織田信長の命を受けた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が但馬国へと侵攻してきます。

『信長公記』の記録によると、1577年(天正5)10月、秀吉は播磨国を平定した勢いのまま但馬国へ向かいました。周辺の城を落とした秀吉は、太田垣氏が立て籠もる竹田城を攻撃します。太田垣氏はたまらず退散し、ここで長年続いた太田垣氏の竹田城支配は終わりを告げました。

秀吉はすぐに城の改修を命じ、弟である木下小一郎(のちの羽柴秀長)を城代として配置しました。信長から「一旦、自分の領地に帰ってもいい」と命じられていたにもかかわらず、さらなる武功を挙げて但馬まで手中に収めた秀吉の執念には驚かされます。

その後、天正8年(1580年)には桑山重晴が城主となり、一万石を治めることになりました。

 

最後の城主・赤松広秀と悲運の自刃

竹田城

天正13年(1585年)、桑山重晴が和歌山へ移封となると、次に竹田城主となったのが赤松広秀(齋村政広)です。

広秀は播磨の名門・赤松氏の出身で、現在見られるような総石垣作りの見事な城郭へ改修を行った人物とされています。

 

竹田城

しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いが広秀の運命を大きく狂わせます。

当初、広秀は西軍に属して丹後国の田辺城(細川幽斎の城)を攻めていましたが、西軍の敗北を知ると東軍に降伏し、鳥取城攻めに加わりました。

ここで事件が起こります。鳥取城攻めの際、城下が大規模な火災に見舞われたのです。その責任をすべて着せられた広秀は、徳川家康の命により鳥取の真教寺にて自刃(切腹)を命じられました。享年39歳という若さでした。

慶長5年(1600年)に竹田城は廃城となりました。

 

歴史の面影を残す「天空の城」

竹田城

(竹田城の看板より転載)

1615年(元和1)に生野代官所の支配下となった竹田城跡は、昭和に入り国の史跡に指定され、戦後には石垣の復元整備が進められました。

現在の竹田城跡は「天空の城」や「日本のマチュピチュ」と称され、秋から冬にかけての早朝には見事な雲海に包まれる幻想的な姿を見せてくれます。

雲海が発生する時期や気象条件については公式ホームページ等で公開されていますので、訪れる際はぜひチェックしてみてください。

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