
17世紀初頭(江戸時代前期)に黒田長政によって築城された福岡城。
以後、明治維新(1868年)に至るまで、黒田氏が福岡城を居城とし、約43万石の領地を治めました。
明治期の廃城令で存城処分となったものの、城内の多くの建物は移転または撤去されてしまいました。
現在は、南二の丸・多聞櫓が国の重要文化財に、下之橋御門や祈念櫓、旧母里太兵衛邸長屋門などが福岡県の有形文化財に指定されています。
それでは、福岡城および黒田氏の歴史について詳しく見ていきましょう。
福岡城へのアクセス

福岡城跡(舞鶴公園)周辺は公共交通機関が非常に発達しているため、地下鉄や路線バスを利用したアクセスが便利です。
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電車・地下鉄:地下鉄空港線「赤坂駅」または「大濠公園駅」より徒歩約8分
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自動車:福岡都市高速環状線「西公園出口」を下りてすぐ。天神北出口からもアクセス可能ですが、天神市街地の混雑を避ける場合は西公園出口の利用がスムーズです。(※城内に有料駐車場あり)
福岡城の築城と歴史

築城のいきさつと『福岡』への改名の由来について。
福岡城は始め黑田長政の筑前を領するや名島城に據りて國政を司りしと雖も名島は偏僻にして長く大國を主宰すべきの地にあらず慶長六年地を那珂郡警固村福崎に卜して城を築く是れ即ち舞鶴城にして長政の曾祖父右近太夫高政備前の福岡と云ふ地に生れたるの故を以て取りて城名となせり今は陸軍歩兵二十四聯隊の營所となれり
(1902年(明治35)4月発行 福岡県案内 福岡城址より)
【現代語訳】
黒田長政が筑前国を治める際、当初は名島城を拠点とするつもりでした。しかし、名島は都市から離れていたため、大国を治める拠点としては不十分でした。
そこで1601年(慶長6)、那珂郡警固村福崎の地を選んで新城を築きました。これが舞鶴城(福岡城)です。
長政の曾祖父・黒田高政が備前国の「福岡」という土地で生まれた縁から「福岡城」と名付けられました。
今は陸軍歩兵二十四聯隊の営所になっている。

福岡城の築城にあたっては、黒田官兵衛(如水)・長政父子の間で議論が交わされたことが史料に残されています。
名島の城は、天正十五年豊臣秀吉公より、此國を小早川隆景に給りし時、始て築かる。良將の經營せる城にて、要害よければ、長政公の父如水公は、舊に依つて是を居城とすべし。別に城を築かん事は、國の費え民の苦み幾許ならん。何ぞ必改め作らんやと仰せける。
(筑前国続風土記 福岡城より)
名島城は1587年(天正15)、豊臣秀吉公からこの地を賜った小早川隆景によって築かれました。
優れた将が造った堅固な城であったため、父の如水(官兵衛)は「そのまま居城とすればよい。新しく城を築くのは国の費えとなり民を苦しめる。なぜわざわざ造り直す必要があるのか」と述べました。
過酷な戦国時代を生き抜いた官兵衛と、新しい泰平の世を見据えて都市開発を見定めていた長政。時代を担う父子の価値観の違いが垣間見える興味深いエピソードです。

こうした古典史料の記述には後世の脚色が含まれる場合もありますが、当時の雰囲気を伝える貴重な記録ですね。
福岡藩・歴代黒田藩主の歩み

黒田如水・長政父子が福岡城に入城して以来、明治時代に至るまで黒田家が福岡藩を治めました。しかし、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。
お家騒動と財政の再建
- 初代・長政:福岡藩の基礎を確立。
- 2代・忠之:先代が残した富を消費し、側近を重用して藩政が混乱。見かねた重臣・栗山大善が幕府に訴え出る「黒田騒動」へと発展しました。改易は免れたものの、幕府からの戒めを受けることとなります。
- 3代・光之:前代の財政難を受け、倹約に努めて藩政を立て直します。しかし後継者問題で家中に対立を生むことになりました。
- 4代・綱政:父・光之の側近を排して自身の権力を強めようとしたことで前藩主と対立。佐賀藩との国境論争や藩札発行の失敗など、苦難の多い治世となりました。
- 5代・宣政:病弱であり、実子がいなかったため従兄弟を養子に迎えて家名を存続させました。
男系血統の途絶と幕府からの養子

- 6代・継高:積極的な藩政改革で成果を上げましたが、晩年に2人の実子を亡くします。10代将軍・家治の従兄弟にあたる治之を養子に迎えました。これにより黒田如水・長政の「男系血統」は途絶えることとなりました。
- 7代・治之 / 8代・治高 / 9代・斉隆:いずれも若くして世を去り、藩主の早期交代が続きました。
幕末の動乱と名君の登場

- 10代・斉清:学問に深く傾倒した藩主です。西洋医師シーボルトと面会した際の問答を記録させた『下問雑戴(かもんざったい)』には、動植物や海外の風土、人種から未確認生物の話題まで多岐にわたる記述があり、彼の探究心の強さが窺えます。
- 11代・長溥:薩摩藩・島津家からの養子であり、幕末の名君として知られます。西洋技術の導入や藩政改革を推進し、激動の時代において福岡藩の舵取りを行いました。
- 12代・長知:最後の福岡藩主。知藩事として明治維新の変革期を迎えました。
終わりに

祖である黒田官兵衛・長政の男系血統自体は途絶えてしまったものの、他家からの養子を迎えながら福岡藩主としての黒田家の名は明治維新まで見事に受け継がれました。現在もその歴史的功績と遺構は、福岡の街に深く息づいています。
ぜひ現地を訪れ、かつて官兵衛や長政たちが歩いた城郭のスケール感を体感してみてはいかがでしょうか。



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