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富来城と足利尊氏や黒田官兵衛、宮本武蔵の関係について【大分】

富来城

大分県国東市にある富来城は足利尊氏、黒田官兵衛、宮本武蔵などの著名人と縁があるとのことです。

それぞれどういった関連があるのか気になったので、実際に訪問して調べてみました。

 

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富来城のアクセス

  • 電車・バスでのアクセス

    • JR日豊本線「杵築駅」からバスを乗り継ぎ「富来」バス停下車(または杵築駅からタクシーで約45分)

  • 自動車でのアクセス

    • 大分空港道路「安岐IC」から約30分

    • 東九州自動車道「宇佐IC」から約60分

 

富来城について

富来城

富来城は1261年(弘長1)に、永井実貞が国東半島の富来に築城したとされています。

永井実貞は豊後大友氏の祖・大友能直が相模国から下向した際に追随してきた鎌倉御家人で、後に地名の富来を名乗るようになったと伝わりますが、永井実貞とは全く関係のない土着の永井氏が築城して、富来氏を名乗った可能性もあります。

これらについては情報が少なすぎて確証は得られておりません。

 

富来城と足利尊氏

富来城

足利尊氏は1336年(建武3)の豊島河原の戦いで後醍醐天皇側の新田義貞、北畠顕家、楠木正成らに敗北し、九州へ落ち延びた際に富来の羽田海岸から上陸し、富来城に入城したとされています。

富来氏の第9代、第10代当主が尊氏を保護し、彼から大変感謝され、所持の旗織や秘蔵の珠を贈られました。これらは近くの萬弘寺に所蔵されているとのことです(当地の案内板を参考にしています)。

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さて、本当にそんな動きがあったのでしょうか?

結論から言うと、尊氏は富来の羽田海岸からは入っていないと考えられます。

確か尊氏は大友氏や少弐氏に迎えられ、筑紫国に入ったはずです。四国にも天皇の派閥がいた状況で、わざわざ危険を冒して瀬戸内海から国東半島へ入る意味は見当たりません。

また、富来城に来たという伝承も少し怪しく感じます。果たしてそんな余裕があったのでしょうか。豊島河原の戦いが1336年の3月後半で、次に起こる九州での多々良浜の戦いが1336年の4月半ばです。1ヶ月もない短い期間のなかで、富来に立ち寄る時間や理由を見出すのは難しいところです。

ただし、所持の旗織や秘蔵の珠を贈られたというエピソードについては、あり得るかもしれません。大友氏に属していた富来氏が、尊氏と何らかの接触を持って感謝された可能性は十分に考えられます。

 

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富来城と黒田官兵衛

富来城

戦国時代末期に大友氏が改易されると、富来氏に代わって豊臣秀吉の家臣である垣見一直が入城します。

1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで、表向きは東軍として加わった黒田官兵衛は、中津城から出陣し九州内で西軍に味方した大名らを凄まじい勢いで蹴散らしていきます。当時の富来城は西軍についていました。

官兵衛は、大友氏再興のために立ち上がった大友義統を別府(石垣原の戦い)で打ち破り、反転して安岐城や富来城に迫ります。城主の垣見一直は美濃国の大垣城に出陣して留守だったため、一族の垣見理右衛門という武将が富来城を守っていました。

そんななか、一直は大垣城での戦いの中で裏切りに遭い、謀殺されてしまいます。主人を失った理右衛門は降伏し、富来城は開城することになりました。その後、江戸時代に入り一国一城令が出されて富来城は廃城となります。

 

富来城と宮本武蔵

富来城

黒田官兵衛の話とも重なるため、ここは簡単に説明します。

宮本武蔵は関ヶ原の戦いの当時、黒田氏に仕えていました。その際に富来城攻めに参加したといわれています。

上記の写真は富来城に残存する石垣です。

 

終わりに

富が来る。

とても縁起の良い名前ですね。

富来城の歴史は不明瞭な部分も多く、謎が残る不完全燃焼な探訪とはなりましたが、それも含めて現地を歩くロマンを感じることができました。

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